スイス、オランダと決定的に違うこと

スイス、オランダ、ベルギーといった安楽死容認国では、安楽死の出発点は「個人の明確な意思」にある。

「まさかこの年齢で死を迎えるなんて、考えたこともなかったわ。けれど、死が怖いんじゃないのよ。この耐えられない痛みとともにじわじわと死んでいくのが、私には恐怖なの」

スイスで死を遂げようとする68歳のスウェーデン人女性は、静かに答えた。彼女は余命数ヶ月の膵臓癌を患っていた。これは安楽死前日のインタビューだった。しかし彼女は取り乱すことなく、冷静に言葉を選ぼうとしていた。傍らには、彼女のパートナーの男性もいた。その彼と半年後に再会した際にも、彼女の選択を尊重し、死そのものを悔やんでいる様子はなかった。

死は、「個人の最期の決定」とする欧米では、医師はもちろんのこと家族ですら、安楽死という決断を尊重しようとする。そのことを象徴する出来事に、私はオランダでも出くわした。扁平上皮癌を患っていた65歳の男性がとった行為――それは、安楽死当日にパーティを開いたことだった。彼は、長い眠りにつく前にシャンパンを飲み、タバコを吸った。

「じゃあみんな、僕はこれからベッドに行って死ぬ。最後までパーティを楽しんでくれ。ありがとう」

未亡人となった女性は、後日、悔やんだ顔一つ見せず、夫との出会いから別れを、美しかった人生の1ページとして、私に語りかけていた。こうした光景を何度も見てきたので、本人も、遺された家族も、納得した死であるなら、安楽死を否定するのは間違いではないかと私は思うようになった。

そうした視点を持っていたからこそ、日本で安楽死を認めることは難しいと思うようになった。そのキーワードがさきほど説明した「迷惑」である。日本では、安楽死を望む人間に何度も会った。そこでは自らの病気に対する肉体的痛みというよりも、他人に迷惑をかけたくないことを理由として挙げていたことが印象的である。

扁平上皮癌のため安楽死を選んだ65歳のオランダ人男性(中央、赤いカーディガン)。安楽死当日、友人や家族を集めてパーティを開いた。男性は撮影から1時間後、この世を去った。(撮影=宮下洋一)

「死」をタブーとするな

私は「日本人に安楽死は向いていない」と考えている。なぜか。それは周りに迷惑をかけないために安楽死を選ぶのだとすれば、家族からの「そろそろ患者に逝ってほしい」という空気を、患者本人が察して、死を願い出るケースも十分考えられるからである。「空気を読む」という日本的習性が、死にかかわる決断を左右するのは危険だ。それは長年、欧米で議論され、培われてきた「死の自己決定権」とは、対極の概念に行き着くものだからだ。

なにも私は、このような日本社会を否定しているのではない。むしろ、安楽死容認国が、「個人の意思」のみで死を選んでいくことに悲しさを覚えることだってある。

私が取材した海外の安楽死希望者の中には、家族に「死の意思」を伝えぬままスイスに渡ろうとする人間もいたし、「最期の瞬間」に子どもが立ち会っていないケースもあった。家族の理解が得られぬなら、個人の意思を優先してしまうのが、こうした国々である。

欧米で長く暮らしていると、日本人ならではの家族主義、共同体意識にむしろぬくもりを感じることもある。日本に一時帰国すると、両親は40歳を過ぎた私の仕事にいまだあれこれ口を出すし、時には原稿に口を出すこともある(それを迷惑に感じることもあるが、うれしくもある)。子どもは、尊重すべき「個人」ではなく、自らの血を分けた「家族」なのだろう。

日本で行った安楽死の取材でも、「家族に迷惑をかけたくない」といってスイス行きを希望する人間がいれば、逆に「家族の理解が得られないから、現時点ではスイスには行けない」と言う人間もいた。

日本人の死生観において、家族は必ずつきまとう。それを悪いとは思わない。あくまで、安楽死が向いていない、と思うだけだ。