21日、デモ隊に対し、軍が一斉射撃を行い、多くの市民が射殺されます。市民は怒りに燃え、警察や軍の武器庫から銃・弾薬を奪い、武装し、市民軍を編成しました。韓国は徴兵制で、一般市民も銃の使い方の訓練を受けているため、銃武装が容易でした。

こうして、軍と市民軍が対峙し、光州市街で銃撃戦が展開されます。徹底した報道規制のため、韓国国民は光州で起こっていることを知りませんでした。わずか38年前、すぐ隣の国でこんなことが起きたということ自体、ちょっと信じられないような思いがするかもしれません。

最終的に、軍は戦車部隊を投入し、4月27日に市内全域を制圧します。光州事件全体の死者は民間人168人、軍人23人、警察4人。負傷者は4782人、行方不明者は406人にのぼりました。(*注1)

陰謀による内乱か、正当な民主化運動か

光州事件は全斗煥政権下で、「金大中などの北朝鮮シンパに扇動された内乱」と規定されました。しかし、1993年、金泳三政権が発足すると、光州事件は内乱ではなく、市民たちの正当な民主化運動であったと再評価されます。光州事件の責任を追及された全斗煥と盧泰愚(ノ・テウ)は起訴され、それぞれ無期懲役、懲役17年の判決を受けます(その後、特赦)。

しかし、光州事件の再評価の動きに対し、保守派から疑義が呈されます。保守派の識者で元韓国陸軍大佐の池萬元(チ・マノン)は様々な観点から、全斗煥政権が光州事件を「内乱」と規定したことを擁護しつつ、「光州事件は北朝鮮特殊部隊の工作だった」と主張します。池萬元は2008年、市民団体から名誉棄損で訴えられますが、2012年、最高裁は「正当な評論の範囲内」として無罪判決を下しました。

こうした保守派の主張に沿った報道番組も放送されました。そして、光州事件犠牲者を追悼する前述の「あなたのための行進曲」には、北朝鮮を称賛する意味が込められているという解釈が強まります。とはいえ、「北朝鮮の陰謀があった」という解釈や見解に対しては、当時の保守与党であったセヌリ党からも否定的な意見が出ています。