村に逗留した儒学者や算法法師、修験者に教えを請うた

では、農村の教育で、「教育ママ」はいたのか。はっきりいうと難しかったでしょう。理由としては、女性の結婚・初産の年齢の平均が、20~23歳前後だったことが挙げられます。対して、夫のほうは30歳前後から30代半ばが平均。現在の年齢の感覚と比べることは難しいとはいえ、20歳のいわば少女である未成熟な母親が口を出すことは難しかったでしょう。

ですので、より主体的に教育にかかわったと考えられるのは、直系家族でいう祖母のほう。自分自身の子育てが終わり分別もついた、教育ママならぬ「教育ババ」が誕生していた、と考えることができます。「教育ババ」といっても、50歳くらいの年。現在の感覚だと十分子育て世代です。

親の仕事場に子供が参加●『日本風俗図絵 第五輯』(黒川真道編)。親の仕事の様子を見て子は家業を学んだ。

さて、農村で行われる「教育」とはどのようなものだったのか。江戸初期では、基本的には家業についての教育です。農家であれば田植えの仕方や畑の耕し方、山に入って薪を集める仕事を教える。漁村であれば、船の扱いや釣りの仕方、波の読み方を教えるということが主でした。農村の仕事は重労働ですので、中心を担うのは男で、男親から息子への教育が基本。女性は、田畑で働く男たちに弁当を持っていくなど、支える側の仕事が多かったと考えられます。

この時代の教育は競争に勝つというよりは、1つの家内で行われる伝承が中心だったのです。

とはいえ、外からの知識を手に入れる教育の機会もありました。代表的なものは、寺院です。和尚が、教訓話や生活の知恵などを教えていた。また、武士や商人ほど頻繁ではありませんが、寺子屋や手習い塾に通う子供もいました。

ほかにも、儒学者や、和算を教える算法法師、修験者などの知識人が移動中に村に逗留することがあり、彼らを宿泊させる代わりに、教えを請うこともありました。

江戸時代には本屋が各地を回って本の商いを行っていました。