こうした状況を一変させたのが関東大震災(1923年)である。仲見世も含め、浅草界隈は壊滅的な打撃を受けるが、すぐに驚異的な復興を見せる。浅草公園・六区・千束にかけて2342軒の店があったが、震災からわずか1カ月で、そのうち2280軒が営業再開したのだ。翌年、仲見世の本格的な復興計画が話題にのぼる。注目したいのは、この頃には、銀座を模したレンガ造りが批判されるようになったことだ。東京市助役ですら「西洋便所のようなみっともないもの」と言うようになっており、その結果、現在の仲見世イメージにつながる和風のデザインが模索されたのである。

家賃値下げ交渉が行われた1930年代

とはいえ、和風デザインもすんなりとは決着しなかった。1925年5月、東京市の営繕課長が突如辞職している。原因はデザインをめぐる対立だ。加護谷営繕課長は雷門と調和するような回廊殿堂式の設計を推したが、建築局長・佐野利器博士の反対にあい、辞表をたたきつけたのだ。結局、鉄筋コンクリート造りの奈良朝風の二重回廊式で改修されることになった。屋根や庇(ひさし)は銅張りで、和風建築と近代的材料が融合された建築となった。

1925年12月、新装の仲見世の使用料金が決まる。東側は12円40銭、西側は13円60銭だ。景気の良い時には1日で30円の売り上げがあったというから、格安の料金と言って良いだろう。しかし、1930年代には世界恐慌の影響、さらにはデパートの進出などで、仲見世も不況に陥る。また円タクが普及し、仲見世を通らず、観音裏の言問(こととい)通りから直接本堂に向かう人が増えたことも影響した。1932年7月には、仲見世始まって以来、お盆用の装飾を行わないことが決定された。この頃、家賃の値下げ交渉が行われた。かつては18000円もした仲見世の権利金が、7000円程度にまで暴落していた。