浅草寺の歴史は長い。伝承では、628年、檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)の兄弟が隅田川で漁をしていると、網に観音像がかかった。像はしばらく現在の駒形堂付近に祀(まつ)られ、645年、勝海上人が現在地に本堂を建てて祀ったとされる。もちろん、浅草寺の歴史が本当に1400年あるとは思えないが、東京都内では最古の寺とされている。

観音像は絶対秘仏とされ、歴代の住職ですら見たことがないという。厨子(ずし)の中に安置されており、厨子が朽ちてくると新しい厨子を作り、その中に古い厨子ごと移されるのだ。

この観音像は、江戸の支配者たちの信仰を集めた。将門の血縁で武蔵守となった平公雅(きんまさ)に始まり、源義朝、源頼朝、北条政子、足利尊氏、北条氏綱、太田道灌などが崇敬した。そして江戸時代には、徳川将軍家の祈願寺となる。東京大空襲で失われるまで存在していた本堂や五重塔は家光が寄進したものであり、旧国宝にも指定されていた。

徳川聖地を「公園」化した明治政府

しかし、明治維新後、徳川家との関わりの深さが裏目にでる。明治政府は「古来ノ勝区名人ノ旧跡地等」を「永ク万人偕楽ノ地」とした。つまり寺社領を没収し、公園制度を導入したのだが、事実上、徳川聖地が狙い撃ちにされた。寛永寺、増上寺、飛鳥山、そして浅草寺が公園として開かれ、公有地として管理されることになったのである。この寺社領の公有化が、最終的には現在の家賃問題の遠因となる。

1876年5月頃、公園化に合わせた仲見世の整備計画が発表された。当時、軒を連ねていたのは土産物屋や茶屋に限らなかったようだ。怪しげな機器を使った電気治療の店があり、警察に目をつけられ、違法な治療行為として営業を差し止められたという記録がある。そのほかにも「専売特許品陳列館」という施設が、「30日余 食わずにいられる法」などを販売していた。