朴正熙の娘である朴槿恵(パク・クネ)前大統領のスキャンダル「崔順実(チェ・スンシル)事件」も、その源流をさかのぼると金載圭の名前が出てきます。崔順実の父親である崔太敏(チェ・テミン)は新興宗教の教祖で、1974年の文世光事件で母を失い悲しみに暮れていた朴槿恵に接近したのです。朴槿恵は崔太敏を信じました。

朴正熙は崔太敏を不審に思い、調査させます。当時、KCIAの部長であった金載圭は「崔太敏と朴槿恵が部屋に入れば、一日中出てこない」という内容の報告を大統領にしています。また、崔太敏率いる宗教団体「大韓救国宣教団」のさまざまな不正も、金載圭が調査し、大統領に書類を提出していました。

朴正熙が崔太敏と朴槿恵の2人を呼んで直接、聞いたところ、崔太敏はこう答えます。「私たちは霊的な家族や夫婦のようなものであって、肉体に関する浅ましい話はしないでほしい」(*3)。朴槿恵の弁護もあり、大統領は納得し、金載圭を叱責しました。しかし、今から思えば、崔太敏に危険を感じていた金載圭は正しかったのです。

「100万や200万程度殺しても心配ない」

では、朴に忠実であった金載圭がなぜ、朴を射殺したのでしょう。事件から40年近くたった今も、その動機については韓国内で意見が別れています。

朴大統領殺害事件の捜査指揮を執っていた保安司令官の全斗煥(チョン・ドゥファン、後に大統領)は、金載圭が自ら大統領になろうとして朴を殺したと断定し、「内乱目的殺人罪」で起訴しました。一方、金載圭本人は事件後の裁判の最終陳述で、事件は韓国の建国の理念である「自由民主主義」を回復するために起こした革命である、と主張しました。

車智澈と金載圭という側近同士の対立が、事件のきっかけとなったという見方もあります。傲慢不遜(ごうまんふそん)で年上の人間にも敬語を使わず、本来KCIAの領分である政治にまでしばしば口を出す車智澈と、自分こそが朴の忠実な部下であると自認する金載圭との間には、事件のはるか以前から確執がありました。以前から仕事上2人をよく知っており、問題の宴席にも同席して生き残った秘書室長の金桂元は、大統領の面前で8歳も歳下の車智澈にトゲのある皮肉を投げかけられ、激怒した金載圭が偶発的に事件を起こしたのではないかと、法廷で証言しています。

しかしそれならば、朴正熙までを殺す必然性はなかったはずです。そこで浮かび上がるのが、当時の「釜馬民主抗争」に対する朴正熙の対応です。