西郷隆盛は「江戸の功臣、明治の賊臣」

西郷隆盛とは、どんな人物だったのか。“明治天皇が最も愛した臣”の西郷隆盛は、江戸後期の1827(文政10)年に薩摩藩の下級武士の子として生まれ、1877年(明治10)年の西南戦争に敗れて51歳(数え年)で亡くなった。西郷は、栃若時代を築いた昭和の大横綱若乃花(初代)並みの巨体(長身178センチ、体重100数キロ)にして巨眼だ。「その眼でにらまれると怖かったが、慈愛を秘めた巨眼だった」と弟の西郷従道(つぐみち)たちがいっていることも、付け加えておこう。

「空前絶後の偉人」「千年に一人の巨人」と評する人もいる西郷隆盛の謎に満ちた波乱の人生を、私は大きく5つに分けている。

(1)経験を無駄にしなかった青少年期 1~25歳
(2)名君島津斉彬に見いだされて大飛躍 26~32歳
(3)「島流し」の逆境の中で自分を磨いた 33~38歳
(4)「薩摩に西郷あり」といわれた 38~41歳
(5)発想の転換で時代を切り開いた 41~51歳

西郷さんと聞いて、圧倒的多数の人がまず思い浮かべるのは、上野の銅像だろう。あるいは、年配の人の中には、銅像のイラストを使った蚊取り線香「南洲香(なんしゅうこう)」が浮かぶ人もいるかもしれない。南洲というのは、西郷隆盛の号である。いずれにせよ、あの銅像を「浴衣の裾を風になびかせながら犬を散歩させている姿」と思っている人が多いようだが、実は「ツンという愛犬を連れてウサギ狩りをしているところ」で、着ているのは浴衣ではなく、薩摩絣(かすり)と呼ばれる薩摩産の木綿布。腰に巻いているのは兵児帯(へこおび)である。犬を連れた着物姿の偉人像は極めて珍しいが、当初の案は軍服像で、皇居前への建立が計画された。だが、公家が猛反対、上野になったという経緯がある。なぜか。

西郷隆盛は「江戸の功臣、明治の賊臣」といわれてきた。江戸幕府を倒し、天皇親政による明治という新体制を樹立した最大の功臣でありながら、1877(明治10)年には自身が鹿児島に創設した私学校の生徒に担がれて「西南戦争」を起こし、賊臣となったからである。

明治天皇は、西郷自決の知らせを受けたとき、「西郷を殺せとはいわなかった」と無念の涙を流し、以後、酒が入ると決まって「西郷がいたら」「あの男が生きていたら」と話した。そういう格別な思いがあったので、1889(明治22)年に「大日本帝国憲法」が発布されると、天皇はそれを口実に西郷を西南戦争以前の「正三位」に復位させ、賊臣という汚名から解き放ったのである。以後、天皇は西郷のことをピタリと口にしなくなったという。

上野に西郷像が建てられたのは、大赦から9年後、西郷自決から21年が経過した1898(明治31)年12月18日のことになるが、結果的には、皇居前の軍服像ではなく、浴衣に間違われるような質素な姿で上野に立つ銅像像の方が、庶民派西郷隆盛には似合っている。

西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」である。「天を敬い、人を愛する」という意味で、ビジネスマンにも当てはまる戒めだ。くだけた言い方をすると、「お天道様に見られても恥ずかしくない行いをせよ。どんな人にも分け隔てなく誠意をもって接すること」で、「慎独(しんどく)」という戒めに通じる。

「慎独」は、「独りを慎む」と読み、中国の古典『大学』『中庸』に出てくる教えで、ビジネスマンに最も必要な心がけの1つでもある。「誰も見ていないと思っても、天は見ている。だから、1人のときも行いを慎むこと」をいう。今日、外国人は対談中、大統領でも平気で足を組むが、日本の礼儀作法ではそういうことは禁止である。西郷さんは、家にいてもきちんと正座していたと家族の者が証言しているが、なかなかできることではない。