不器用な会話も、旅の思い出になる

イリーは、SFの世界のように話したことをなんでも正しく翻訳してくれる夢の翻訳機、というわけではない。ジャンルは旅行会話に限定されているし、できるだけワンフレーズで、短い文章ほど翻訳精度が高まるように設計されているため、複雑な会話には使えない。筆者の知人のフランス人がそうだったように、長文を話せば誤訳しやすくなる。例えば「おなかが痛いので薬をください」というよりは、「おなかが痛いです」「薬をください」と分けたほうが正しく翻訳されやすい。

翻訳も双方向ではなく、日本で販売しているモデルは日本語から英語(中国語、韓国語)と一方向だ。それは操作の説明やミスを極力減らし、スピーディーにコミュニケーションを行うために、あえて選択されている仕様である。しかし「イリー効果」を感じた利用者は、この設計の“クセ”を理解し、使いこなしているという。それは伝わること、意思疎通ができたことの喜びを感じた人たちであろう。

それだけに、中には批判的な声もある。

「『翻訳精度がちょっとよくないね』という声もいただいています。でもそれは、ご自身がその言語を話せる方の場合が多いですね。自分が普段カジュアルに使っているフレーズと、イリーからでてきた翻訳が違うために、翻訳精度が悪いと思われるケースがあるようです。また、このような製品を出すと、『精度を比較していいですか』とよく聞かれます。それは構わないのですが、翻訳の結果を比較するよりも、利用シーンをちゃんと出してくれるとうれしいですと、よくお話しています」(中野氏)

イリーの利用シーンとは、言葉が通じない人どうしでなんとかコミュニケーションを取る、ということを指す。もちろん精度が高いに越したことはないが、試験ではなくコミュニケーションなのだから、人と人の意思疎通の手助けになることが大事なのだ、と中野氏は言い、こんなエピソードを話してくれた。

「私は中国語がまったくわからないのですが、昨年イリーを持って友達と中国に行ったときのことです。お店で料理を頼んでいたら、店員が何かしきりに言っている。そこで、中国語から日本語に翻訳できる開発中のイリーを渡して使ってもらったところ、『多いです』と言っていることがわかりました。1皿の量がとても多いのに、知らなかったわれわれは2人で20人前くらい頼んでいたようでした。『多い』と言われていると分かった以降は、相手の言わんとしていることがなんとなく感じられるようになりましたね。

その後、台湾にも行きました。食べ放題のお店なのにそうとは分からず、店員も中国語しか話せません。(もともと定額で食べ放題の店だったので)メニューには値段が書いてなかった。値段も分からないし、何を注文したらいいのかわからず戸惑っていたんです。考えた末に、店員の男の子にイリーでいろいろ質問しました。『食べ放題?』ってひとこと聞いたら『それだよ!』って。そこからはもう一気に言語の壁を越えた展開になりました。向こうも通じたのがうれしかったのか、後ろを通りかかる度にビールを見せて、飲む? 飲む? と勧めてくれて(笑)。

さらに、たまたま隣のテーブルに日本語を話せないけど書けるという方がいて、われわれのやりとりを見ていて「それ何?」って会話に加わってきました。日本語のメモ書きで注文をサポートしてくれて、本当に楽しかったですね。最後はみんなで記念撮影をしました。おいしいものを食べたという記憶よりも、彼らとコミュニケーションできて楽しかった、という思い出のほうがはるかに勝っています」(中野氏)

もしイリーが完璧に翻訳をこなして、お互いの言語の違いをまったく意識しなくて済むなら、それはとても便利だ。しかしそれでは、海外に行った感覚すらなく、日本で食事をするのとあまり変わらなかったかもしれない。トラベル(travel)の語源は、古フランス語の「苦労」を意味する“travail”だという説がある。不器用な会話ほど、旅の思い出になりそうである。

旅先で、現地の言葉でやりとりできるというのは大きな魅力だ。