なぜあのとき、私はヘリ放水を命じたのか

それでは、福島第一原発にヘリコプター放水を行なうまでの自衛隊の作戦実行に至る状況は、実際にはどのようなものだったのでしょうか。

あのときは原発、とくに原発建屋や炉内の状況が事業者である東電をはじめ、皆目わからない状況でした。わかっているのは、残念ながら、状況が最悪に向かっているということだけでした。最良は供給電源の復旧が行なわれることですが、それは不可能でした。

そうした状況を念頭に置いて、注水による炉内の冷却か(それも大型ポンプか、消防車か。消防車なら自衛隊、消防庁、あるいは警察か。水は淡水か、海水か)、あるいは自衛隊ヘリによる放水かなど、判断が必要なこと、作戦の実行手段は、数多くありました。

しかし、消防車が進入、注水するために必要な周辺のガレキの処理が行なわれておらず、ガレキ処理のためには、時間が必要であり、事の緊急性は増すばかりだったのです。

一部の人からは、あの程度の量の水を撒いたところで意味があるのかと揶揄されましたが、当時は原発の暴走を止めるために、できることは何でもしなければならないという状況でした。ただし放水をすれば、隊員の生命と健康を危険にさらす可能性もありました。

時間とのギリギリの勝負という局面において、「状況が限りなく不明な情報と数ある作戦」を勘案しながら、自衛隊のヘリによる放水を命ずるという統幕長としての「決心」をしたわけです。それを「決心」した最大の理由は、処置が遅れて原発が暴走し、限りなく被災地が広がることをまずは抑えなければならない、という緊急性でした。

さまざまに悩みましたが、結局、私は孤独のなかで放水を命じました。自衛隊員として国と国民を守るために生きてきたわけですし、隊員に何か健康被害が生じたときには、その隊員と一生寄り添っていく覚悟をしました。それが私なりのトップとしての決断と責任の負い方でした。もし一緒にヘリに乗っていけたら、少しは心のジレンマを解消することができたかもしれません。けれども、それはトップたる者の仕事ではないと自らに言い聞かせました。

とはいえ、ヘリによる放水も順調というわけではなく、3月16日には原発上空まで飛行しましたが、放射能濃度が高く、実行には至りませんでした。しかし、当日のパイロットの被曝状況などに異常がないことを確認し、その翌日には関係者の強い使命感のもとに実行に至り、その後の消防車による注水につながっていくわけです。

彼らが決死の覚悟で行なった行為は、直接的には放水による効果として現れ、そして間接的には日本の原発対応に立ち向かう姿勢を内外に示すことができたと思います。