教会で生まれた「新しさ」への関心

1951年11月、長野県松本市に生まれる。両親は公務員で、弟と4人家族。振り返れば、キリスト教会の幼稚園に通ったことが、社会人になるまでの間で最大の影響を受けた経験だ。教会との縁は小学校へ入って少し空白ができたが、3年生から3年間、日曜礼拝に通うようになり、斉唱した讃美歌に新鮮な「洋風」を感じ取る。

礼拝後には奉仕の活動があり、サバイバルゲームのように、テントの張り方やロープの結び方なども教わる。終わるとキャンプファイアーを囲み、飯盒で炊いたご飯を食べた。すべてが初めての世界で、「新しいもの」に強い関心を抱き、「誰もやっていないことをやってみたい」との思いが膨らむ出発点となる。教徒にはならなかったが、讃美歌の数々は、いまでも覚えている。

県立松本県ケ丘高校から東京の青山学院大学法学部へ進み、75年4月に朝日麦酒(現・アサヒビール)に入社。前に触れた入社後の営業体験を経て、東京支店千葉営業所へ配属された。1年後には、東北6県を受け持つ仙台支店販売課へ転勤となり、3年半、岩手と福島を担当した。

仙台では毎週、月曜日は内勤で火曜日に列車で岩手県へ。土曜日まで問屋や小売店を回り、夕方の特急で戻る。乗る前に得意先の酒屋で立ち飲みし、1人のときは疲れが出て寝込んでしまい、「郡山」の放送に驚いて飛び降りた。待合室で仮眠し、1番列車で仙台へ戻ることが年に4、5回あった。

その間、職場代表として労組の大会へいき、1度発言した。それだけだったが、その後、専従役員に指名される。経営の苦しいときで、人員削減や工場閉鎖に遭遇。「2度とあってはいけない」という出来事を経験しながら、10年という異例の長さを務めた。

2011年7月、純粋持ち株会社のアサヒグループホールディングスが設立され、その下に連なるアサヒビールの社長に就任した。人事部門で執行役員になり、経営戦略やM&Aなどを経験した後、子会社のアサヒ飲料のてこ入れに人を出すとき、担当役員としてトップに示した候補者に自らの名を書いた。「新しいもの」への関心は、全く落ちていなかった。

子会社へ籍を移し、赴任前の晩には家族で「スーパードライ」で乾杯。常務として着任後は毎日、アサヒ飲料の「三ツ矢サイダー」を飲む。「ここでビジネス人生を全うしよう」と決めていた。ところが4年後、アサヒビールに戻ってさらに幅広い分野を経験し、ビール事業の最高責任者となる。そして、2016年3月には、持ち株会社の社長に昇格した。

ビール事業会社の社長になって以来、会議は月曜日に集め、火曜日からは社外へ出るようにしている。市場の状況に触れたいからだが、無論、現場が大好きだから、国内外の営業や生産の拠点にも赴く。仙台支店時代の毎週の出張体験もあるから、何も苦ではない。

アサヒグループホールディングス 社長 小路明善(こうじ・あきよし)
1951年、長野県生まれ。75年青山学院大学法学部卒業後、朝日麦酒(現・アサヒビール)入社。東京支社特約店営業部長を経て、2001年執行役員、03年アサヒ飲料常務、07年アサヒビール常務、11年アサヒグループホールディングス取締役兼アサヒビール社長。16年3月より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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