喋る言語によって、性格まで変わってしまう

言語というものは、何語を喋るかによって性格まで変わってしまうことがある。普段は曖昧で断定を避ける日本人でも、英語だと明確に断定してしまうことがある。英語は構造的に主張がハッキリしてしまう言語だ。これは英語を使う利点ともいえるが、日本人どうしの場合、長きに渡る人間関係において英語的コミュニケーションを続けるのは、かえってストレスになってしまうのではないだろうか。

たとえば、会議の終わりどころをどうするか、という状況を想像してみよう。議題はひととおり消化して、それなりに討論も尽くしたが、まだどうもモヤモヤとしている──そんな場面だ。一同が完全にスッキリしたわけではないが、かといって誰かが素晴らしい意見を持っているような雰囲気でもないので、「いったん、お開きにしますか」なんて空気が流れている。そんなとき、英語だとたぶんこのような感じになる。過去に外資系の人々と一緒にやった会議では、実際にこんな調子だった。

「Well, that's about it?(大体こんなもんかい?)」
「Yeah…(まぁ、そうだね……)」
「OK, we're done, hope you guys bring better ideas next time.(了解。じゃあ終了ってことで。次はもっといいアイディアを持ってきてくれよな)」

ビシッとしている。ただ、殺伐とした雰囲気もある。長年、日本式の会議に慣れ親しんできた私には、正直、以下のようなやり取りのほうがしっくりくるのだ。

「まぁ、今日はこんなところですかねぇ……」
「そうですねぇ……。なんとなく煮詰まってきましたねぇ……」
「じゃあ、まぁ、こんなところで」
「まぁ、こんなところですかねぇ(ゴニョゴニョしつつ、全員が書類を机にトントンと立てて帰り支度を始める)」

曖昧なほうが円滑に進むこともある

このなんとも言えない、あやふやなやり取り。かつ、誰にも責任を負わせないような喋り方。日本人どうしであれば、これくらいのテンションのほうが会議もうまく回るように思える。

英語では「お前はダメだ」「もっとまともな意見を言え」「お前はクビだ」といった直接的な表現になるところ、日本語だと「ちょっと○○さん、今のままだと厳しいかなぁ……」「もう少しなんとかならないかなぁ……」「言いにくいんだけど、○○さん、次の契約が難しそうなんだよね……」と、婉曲的に表現できる。

英語だととかく「何事にも厳しい、やり手」風の表現になってしまうし、どんな話題でも「白黒をはっきりさせる」方向で会話が進んでしまいがちになる。この「英語を喋ると性格が変わる」みたいな傾向は、多くの日本人にとってマイナスに作用するのではなかろうか。英語でコミュニケーションを取ったあとに「あぁ、彼に対して直接的に言い過ぎちゃったかなぁ……」といった自己嫌悪感をもたらすかもしれないし、言われた側も「あそこまでビシッと言わなくてもいいのに……」と余計なストレスを感じてしまうかもしれない。