撮影中にかけた催眠術

もうひとつ、誰も知らない高倉健エピソードがある。むろん、単行本には載っている。

『高倉健ラストインタヴューズ』(野地秩嘉著・プレジデント社刊)

東映時代のことだ。撮影所で催眠術が流行ったという。丹波哲郎さん俳優たちに伝授したところ、高倉さんがいちばん上手になった。高倉さんは習い覚えた催眠術を駆使して、撮影助手にこう言った。

「いいか、監督がよーい、スタートと言ったら人生劇場を歌うんだ」

そして撮影が始まった。

監督がメガホンを口に当て、「よーい」、「スタート!」と叫ぶ。すると……。どこからともなく「やーると思えば、どこまでやるさー」と人生劇場の歌詞が撮影所内に流れてきたのである。

「カーット?! 誰だ、歌なんか歌っとるのは」監督は激怒して、撮影助手の胸ぐらをつかんで外に出ろという。主演の高倉健は「まあまあ、監督」とそれをいさめる。

以後も高倉さんは催眠術を自分になりに進化させたようで、共演者が上手な演技ができるように、新人俳優には「がんばれ」と術をかけていた。

高倉健の「怒り」の表現方法

では、高倉健がいったん怒ると、どういった具合になるのか。

わたしが見たのは数回しかない。一例を挙げればそれは『鉄道員』の記者会見をやっていた時だった。同作品のロケ地は富良野の近く、根室本線の幾寅駅である。期間は3週間ほどで、一日の撮影が終わると、時々、高倉さんや降旗康男監督が記者、ジャーナリストの質問に答える機会があった。

大勢を前にして座った高倉さんはひとつひとつの質問に真面目に答える。ベテラン記者よりも、「初めて映画のロケを見ました」といった新人記者に対して、より丁寧に、よりやさしく答えるのが彼の流儀だった。

彼は質問に対して、反射的に答えることはしない。じっくり考えてから答える。そのため彼の記者会見では質疑応答の間に、誰も何もしゃべらない、沈黙の時間がある。

思えば記者会見だけでなく、取材していても、うむと考えてから答えが来るまでに時間がかかるので、取材者としてはやりにくい人ではある。

「何かいけないことでも言ったのかな」と気になってしまうからだ。しかし、そうではなく、彼は誰よりもひとつの問いを真剣に考えてから答えを出す人なのである。