2014年鬼籍に入った「日本最後の映画俳優」高倉健。3回忌を迎えた今年、高倉健の貴重な取材音源が『高倉健ラストインタヴューズ』として書籍化された。紙幅の都合で収録できなかった「秘話」を、ノンフィクション作家の野地秩嘉氏がお届けする。第2回は「怒り」。高倉健は怒鳴ることはしない。では映画以外の場所で、どのように怒りを表現したのか――。(第2回、全3回)

誰も知らなかった高倉健の真実

映画のなかでは怒りを腹にため、最後の最後まで決して表情に出さないのが高倉健だ。だが、現実の世界で、彼が怒った時、その怒りをどう表現するのだろうか。

高倉健さんは黙って、じっと見る。それが怒りの表現だ。

わたしは1995年に初めて高倉さんの取材をしてから、2012年の遺作『あなたへ』の現場で会うまで、その18年間に、100日以上の撮影所見学、30回くらいの喫茶(コーヒー)、10回の取材インタビュー、2回の食事をした。

前作『高倉健インタヴューズ』には膨大な記録のなかから、雑誌に発表した分だけを載せた。一方、今回の著作『高倉健ラストインタヴューズ』はどこにも発表したことのないものだ。高倉さん本人の携帯電話の番号まで知っていた熟練編集者、桂木栄一とわたしが録音したもの、そして、メモから起こして書いたものである。

なかにはさまざまなエピソードや、これまで誰も知らなかった事実がある。

たとえば、彼が1976年に東映を退社した後、わずかな作品にしか出ていなのは古巣、東映が自社のスタッフに「高倉を使うな」と言明したからだという。他の大手も東映に遠慮して、新作に彼を起用しなかった。わずかな間だったけれど、高倉健は干されていた。これは本人がある親友だけに語っている。確かに、東映退社後、彼が出たのは大映作品『君よ憤怒の河を渉れ』、独立プロの作品『八甲田山』、山田洋次監督が熱望した松竹作品『幸せの黄色いハンカチ』の3作だ。東映ももちろん、東宝もない。

ただし、3つの作品が大ヒットしたために、その後は「干された」状況ではなくなった。

高倉さんが『鉄道員』に出るまで19年間、東映作品の出演依頼を断ったのは独立した当初、「干された」ことに対して、東映幹部に怒りを覚えていたからだろう。