そうした環境の中で、ミニマリストに「まわりと違う自分でいるには、ちょっと勇気もいる」と言われると、それはかなり変人扱いされているんだね、と思わずにはいられない。

大学にもミニマリストの人はいる? カナダの大学生に聞いてみると、「キャンパスで出会ったことはない」と言う。学生時代はお金がなく、主義主張を持ってミニマルを目指すまでもなく、生活はきわめて簡素だから……という話は、アメリカの大学生も、カナダの大学生からも出てきた。「ミニマリストっていうのは、経済的、社会的な地位のある人が、一つのライフスタイルとして提案するものだ」という意見もあった。食うや食わず、専攻によっては就職もかなり厳しい北米の学生の目には、ミニマリストは、豊かな経験を十分に積んだ上で、あえてそこから離れようとする恵まれた人の提案だと映るのかもしれない。

移民層には通用しない考え方

移民層を中心に、経済的に厳しい生活を強いられている人たちは、まずは平均的なライフスタイルに追いつくことに必死になる。みんなが持っている物は欲しいし、みんなが食べに行く店には自分だって行きたい。そういう人にミニマリズムは通用しない。これは、アジア系、アフリカ系移民の学生たちから出た言葉だ。豊かさの上に成り立つ、アメリカのミニマリズム。

日本のミニマリズムや断捨離はどうだろう。やはり、ある程度の物欲が満たされて初めて行き着くものなのだとすれば、非正規雇用者の拡大する若い層には、厳しい考え方ということになる。

洋服も家具も、自分らしさを探しながらいろいろな物を試し、失敗した先にあるミニマリズムはスタイリッシュかもしれないが、発展途上の若い人たちには、自分を試す機会を奪う、あまりありがたくない考え方なのかもしれない。

いつから質素は「美徳」になったのか

学校の校則で「華美なものを避ける」「華美ではないものを」という文言に出あったことのある人は多いだろう。服装規定などでお約束のように出てくるのは、この「華美なものはダメ」という考え方だ。

ちなみに「華美」の対義語は「質素」である。質素倹約といえば、享保の改革を断行した徳川吉宗。その精神は軍人勅諭に受け継がれ、「凡(およそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華美(きょうしゃかび)の風を好み遂には貪汚(たんお)に陥りて」ろくでもないことになり、節操も武勇もその甲斐なく世の人につまはじきされるようになるぞ、と教え込まれた。そして、その精神は今でも多くの学校に受け継がれ、軍人勅諭のように「質素を旨とすべし」とまでは言わないまでも、「華美」はよろしくないものとして敵視されている。

第1部でも登場してもらった社会学者のアン・アリソンが指摘するように、よき母としての価値観が、学校教育を通して母親たちに刷り込まれていったとすれば、それと同時に日本の教育が刷り込んできたもう一つの価値観が、「華美はダメ。質素がよい」だろう。実現は難しくても、どこか心の中で「簡素な生活」を素晴らしいと無批判に受け入れてしまうのは、子どものころから、「華美はダメ。本当は質素な方が正しい」と、ことあるごとに刷り込まれてきているからではないだろうか。質素倹約が美徳として尊ばれるとすれば、その対義語である華美贅沢は敵なのだ。