マイナスをゼロにする仕事でしかない

ただ、同時に、毎週強烈なむなしさにも襲われていました。あの場所で「ダメ出し」をするのは世の中に対して必要なことだと思うので一生懸命やっていましたが、それは結局、マイナスをゼロにする仕事でしかない。生産的でもなければ、想像力を刺激されるような仕事でもないんですよね。だから「自分の人生は本当にこれでいいんだろうか」と思ったんです。このままだと働き盛りの30代後半が、言ってみれば社会のドブさらいで終わってしまう。それはそれで大事なこと、必要なことだと思っているから引き受けたのだけれど、それだけで人生が終わるのはイヤだから、この本を書いた。そういう動機もあります。

宇野常寛『母性のディストピア』(集英社)

――つまり、『ニッポンのジレンマ』にしても『スッキリ』にしても、テレビの視聴者は、宇野さんがアイロニカルに振る舞う様子だけを見ていたわけですよね。しかし、この『母性のディストピア』という本は、そういった言説の背景を示すものになっている。

少し言い方を変えると、『ニッポンのジレンマ』のころに僕がやっていたことは、政治の言葉を使う政治家や学者より、サブカルチャーの側から文学の言葉を使う僕のほうがよほど政治的である、という逆説的な状況を見せることだったんですよ。そうすることで、「社会と個人」や「政治と文学」の関係を問い直してほしかった。

この本にも書きましたが、僕は政治の言葉は文学とつながらなければ機能しないと考えています。振る舞いはアイロニカルにみえたと思いますが、一生懸命やっていたのは政治と文学の接続なんですよ。でも一言でいうと、まあ端的に、NHKのプロデューサーとケンカして降ろされたわけですよね。そういった僕の振る舞いをテレビの側が気に入らなかったわけです。

「こんなものはクズだ、ありえない」

――『スッキリ』ではどうでしたか?

『スッキリ』は生放送だし、とにかく尺がないので、もっと直接的に「こんなものはクズだ、ありえない」といったことをぶつけて、どんどん波を起こしていったわけですね。だから『スッキリ』では政治の言葉しか語っていないはずです。正確には政治ではなくて、ただの「政治ごっこ」なんですけれど。それが「ごっこ」にすぎないということを全力で指摘して、終わり。

だからあの場では政治と文学の分断をある程度受け入れざるを得なかった。そのフィールドに乗るしかないという息苦しさはずっと感じていました。そのはけ口のようなものが、この本に集中しているんですよね。それが僕のメディア人としてのひとつの回答です。