23歳で家業を引き継ぎ債務超過の危機に

同社の前身は守井の父が1964年に創業した守井加工所という個人事業で、大手スーパーの下請けとして紳士服の裾上げを専門に行っていた。守井は父の仕事を継ぐ気はまるでなく、大学を卒業後、東京海上火災保険に入社した。念頭にあったのは損保代理店として独立することだった。

だが、東京海上で知り合った先輩から、父の跡を継ぐことを強く勧められる。守井はその先輩に心酔していたこともあって、忠告を受け入れ、わずか8カ月で東京海上を去り、1990年に守井加工所に入社した。

当時の守井加工所の従業員は4人で、儲かっているとは言えず、どこから手をつけていいか分からなかった。学生時代にアルバイトしていた外食チェーン店の上司に相談してみると、12歳年上の上司は「一緒に手伝いたい」と言った。そこで、92年、守井加工所の事業を引き継ぐ形でビック・ママを設立した。

「このタイミングで父にはリタイアしてもらい、元上司に専務になってもらいました。ただ、その人はエリート意識が強く、修理の仕事を甘く見ていました。新規事業をやりたいとビジネスプランばかり考え、私に内緒で経費も使い込んでいました。私は彼を信頼していましたし、自分でも新規事業を実現したいと考えていたため、もめながらも数年がたち、結局、債務超過に陥ってしまったのです」

23歳で家業を引き継いだ守井に脇の甘さがあったのは確かだろう。だが、危機に直面して目が覚め、ちょうど出会った経営コンサルタントのアドバイスを受けながら、相当額の退職金を払って専務に辞めてもらい、事業を見直すことにした。思い切って下請け仕事を断り、一般向けのお直しショップを開店することを決めて、99年に仙台に1号店を出すと、たちまち繁盛店になった。

シャツの袖口のすり切れの修理例。(Before→After)

「私はお客さまに『なぜこの店にいらっしゃったのですか』と聞きました。すると『こういう気軽な店がほしかった』とおっしゃった。自分の考えは間違っていなかったと確信し、そこから1年に1店舗ずつ、東北を中心に店舗を拡大していきました」

だが翌年、郡山の出店で大失敗する。1号店は小型店だったが、郡山では立地もよく考えずに大型店を開き、大人数で運営しようとしたからだ。その後も何回か失敗を繰り返すうちに、「毎日の買い物客が多く行き交う立地で小型店」というコンセプトができあがっていった。

2005年には初めて東京に出店している。たまたま知り合った人が「テナントに空きが出た」というので出店を決めたが、なかなか売り上げが上がらず、すぐに撤退した。

「もう少し続けていれば、成功したかもしれませんが、当時は経験もロジックもなく、すぐにダメだと決めつけてしまったのです」と守井は悔やむ。

そして、05年12月に「たまプラーザ」(横浜市)へ出店。その後は、次々に出店の誘いが来て、蒲田の駅ビル、渋谷の路面店、東京駅の丸ビル、横浜の地下街、渋谷の109、吉祥寺と、出店速度を上げた。