しかし、難関大学トップの卒業生を多く採るようになった“一流企業化”は、出版社の力を強くしてきたのだろうか。

約1000人の3分の1強が早稲田卒

私の半端な編集者人生を振り返ることで、少し考えてみたい。私が講談社を受験したのは1969年の6月。当時の野間省一社長には「新聞を出したい」という腹積もりがあったため、新卒35人、前後の途中入社を入れると121人の大盤振る舞いだった(現在は20人前後)。早稲田の商学部だったが、私のような成績不良者でも潜り込むことができた。

成績不良というのはテレでも何でもない。当時の評価は優、良、可だったが、優は体育しかなく(それも友人が私に代わって出てくれたのだが)、あとはすべて可だった。

最終面接で、当時の専務が「君はどうしてこんなに成績が悪いのか」と詰問した。私は「バーテンダーとして毎晩働いていたので、学校にはほとんど行かなかった」と正直に答えた。今だったら書類選考で落ちていただろう。

当時約1000人いた社員の3分の1強が早稲田卒だったと思う。同じ大学だから気が合うと思うかもしれないが、早稲田気質は一匹狼である。まとまらないこと甚だしい。

入って早々、早稲田と慶應の集まりがあった。慶應は早稲田に次いで多く100人前後だったと思う。こちらはすこぶるまとまりがよかった。

「これだけいるのだから誰か行くだろう」

早稲田はというと、「これだけいるのだから誰か行くだろう」と出かけてしまって、その集まりは中止になった、と後から聞いた。

早稲田の100周年記念(1982年)の時だったと思う。社のエライさんが大学の理事か何かをやっていたため、講談社の早稲田OBからも寄付を募ろうという話になった。

だが、ほとんど集まらない。エライさんはご立腹召されて「給料から天引きする」といいだした。そうなると早稲田はまとまる。そんなのは憲法違反だなんだと大騒ぎになり、当然だが取りやめになった。

さまざまな経歴を持った途中入社の人間には、社会人を経験した落ち着きがあり世間知があった。週刊現代の記者には学生運動をやり過ぎて就職がない人間たちが集まり、呑むとすぐにけんかを始めた。まさに梁山泊であった。