「全員で生保を売る」

2003年7月、富山支店長になった。県内にある支社と合わせて営業部隊は約100人。小規模だが、多くの社員が一度はやってみたい「一国一城の主」だ。初の単身赴任ということも加わり、楽しみ半分不安半分で、着任する。人事課長からの転勤で、45歳のときだ。

損害保険ジャパン日本興亜 社長 西澤敬二

支店は駅に近い自社ビル内で、明るい気持ちで扉を開けて第一声を発したが、反応に元気がない。下を向きがちな姿も、目につく。富山は、以前は県内の業界シェアは断トツで、名門支店に数えられていた。だが、10年前から成績の低下が続き、着任の前年度には全国の支店で下から3番目。うつむき加減となるのは、そのためだ。

どこに問題があるのか、早く手を打ちたかったが、新任支店長として、有力客や大きな代理店など最低限の挨拶回りが先だ。それが一巡して7月末、気がつくと、成績は全国で最下位になっていた。

その間、日程の隙間をみつけては、一人一人と面談した。10年も不振なわけだから、どうやれば立ち直るかが、簡単にわかるはずもない。まずは、みんなが日々、どんな仕事を、どういう思いでしているのか、それをつかみたい。

何かをやりたいと思っても、すぐ動き出すほうではない。話をよく聞いて、深く考える。そのうえで、最終目標を明確にして、何から取り組むべきか、優先順位を決める。結果の数字が先行して、後先が逆になっては、いけない。

面談を重ねていくと、本社からくる指示が多様なうえ複雑で、1人がこなせる量を超えている、と分かる。教育や育成は後回しで、上司はただ「やれ」「やれ」と繰り返すばかり。みんな、ビジョンもなく愚直に取り組むだけで疲弊し切り、負け癖もついていた。

定めるべき目標は、明快だ。みんなに自信を持たせ、「昨日よりは今日、今日よりは明日が、少しでも働きがい、生きがいがある職場」にすることだ。では、何から着手するか。1カ月間、代理店の人々からも何気なく話を聞き、シナリオを描いていく。

出した答えが「全員で生命保険を売る」だ。金融自由化による損保と生保の相互乗り入れは、7年前に始まり、自社も生保子会社を持っていた。ただ、着任してみると、ほとんどの営業部員や代理店員は、生保に手が回っていない。一方、国内の損保市場は、成熟し始めていた。着任前の02年度の伸び率は0.4%で、富山県は0.2%減、県内自社は0.1%減。その先も、保険料の値上げがなければ、マイナス成長は確実だ。

優先したのは、数字ではない。生保は長期契約が主流で、販売先は新規客が大半。契約を得るには自ら行動し、開拓しなければならない。他方、損保の多くは1年契約で、大半が更改してくれ、新規客はちょっと獲得できればいい、と考えがちだ。富山でも、誰もが「守りが大変で、攻めなどできない」となっていて、それが負の循環をもたらしていた。そんな意識や行動の改革こそが優先で、「新規開拓しかない生保」を選ぶ。

それを「全員で売る」は、職場に一体感もなかったから、とくに重要だ。だが、けっこう成績を上げていた自動車保険の企業担当者らは「自分たちには関係ない」と抵抗した。それでも、毎晩、営業から帰ってくる面々を待ち、「おい、生保をやろう」と話しかけ、意義を説くと、次第にわかってくれた。本社から講師を呼んで勉強会を開くと、全員が参加した。

実は、半年間、損保の新規営業は止めた。生保で一点突破するためで、本社を口説き、了解を得た。未開の市場だっただけに、すぐに手応えがあり、みんなの眼の色が変わる。自信のある発言も、出始めた。そんな状態で損保の営業にも戻っていき、成績は全国で上から3分の1に上がった。03年度の損保市場の伸び率は全国が0.7%、富山県が1%に対し、自分たちは2%。翌04年度も、全国も富山県もマイナス0.2%だったのに、5%も伸びた。