朴正熙は日本名を高木正雄といいます。日本の陸軍士官学校を留学生首席で卒業し、当時日本の支配下にあった満州国軍に所属していました。朴政権には、日本の陸軍士官学校出身者や日本留学経験者が多く、朴正熙が側近と密談をする時は、日本語を使っていたそうです(女性に聞かせられない下ネタ話も日本語でした)。

朴ら首脳部は親日派で、日本に接近することに抵抗はなかったのですが、韓国の国民感情がそれを許しませんでした。朴政権の日本への接近は日本統治時代の屈辱を忘れ、わずかな支援金と引き換えに国を売る行為であると批判されたのです。

朴正熙は反対派を弾圧し、1965年、日韓基本条約を調印します。これにより、韓国政府は日本から総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の支援を受けます。この額は当時の韓国の国家予算の2倍以上の額でした。この巨額の支援金を使い、政府が産業育成を主導し、「漢江の奇跡」を達成します

また、朴は1964年、アメリカの要請で、ベトナム戦争へ韓国軍を派兵しました。ベトナム戦争の戦時特需が韓国経済にさらなる追い風を吹かせます。

こうした状況の中で、「現代(ヒュンダイ)」のような財閥が台頭するのです。政府と財閥との癒着構造の中で、財閥は横断的なカルテルを結成し、中小企業、単純企業を不利な状況に追い込み、それらを吸収していきます。政府は財閥に有利な税制・補助金制度を拡充し、その権益を認めました。

満州国軍時代の「日本人上司」も尽力

日韓基本条約締結後、日本の支援は金銭面のみにとどまらず、技術面でも多岐にわたりました。多くの優秀な日本の技術者が韓国に渡り、惜しみなく、技術指導を行いました。

日本企業の技術者派遣のプログラムの詳細を取り仕切ったのが瀬島龍三でした。瀬島は戦前、関東軍作戦参謀をつとめ、満州方面の陸軍を指揮したエリートで、満州国軍時代の朴正熙の上官にあたります(陸軍士官学校では朴正熙の1期先輩でした)。

朴は大統領になってから、日本との関係構築を進める際には瀬島を頼りました。当時、瀬島龍三は伊藤忠商事の取締役でした(1978年、同社会長に就任)。瀬島は技術支援など、多くの日本企業を韓国と積極的に関わらせる役割を果たします。