「人材育成」をどう進めるか

海外案件が増えていくなか、課題となったのが人材不足。どの拠点も現地人の採用を重ねたが、優秀だと思って育てても、3年くらいでいい条件を提示する会社へ転職してしまう。がっかりするが、それが、海外では普通だ。

そこで、日本的な発想は、台北で捨てた。早期退職が予想される面々には「3年なら3年でいいから、その間は成果を出してくれ」と言い、それなりの教育もした。一方で、1割か2割、10年以上は経験を積んで幹部に育ってくれそうな人には、それにふさわしい指導をして、ノウハウも移植した。

日本から海外へ派遣する社員にも、07年ごろに専門の研修を始めた。上海プロジェクトの最中だ。いまは国内外の社員を合わせて実施しているが、入社10年目までを中心に3段階に分け、それぞれ1週間のプログラム。それが、2、3年に一度、やってくる。

「終身之計、莫如樹人」(終身の計は、人を樹うるに如くは莫し)――生涯を通じた計画を立てるなら、人材を養成することだとの意味で、中国の古典『管子』にある言葉。その前に「一年之計、莫如樹穀。十年之計、莫如樹木」(一年の計は、穀を樹うるに如くは莫し。十年の計は、木を樹うるに如くは莫し)とあり、1年単位の計画ならその年のうちに収穫できる穀物を植えればよく、10年単位ならばそれだけの年月をかけて育つ木を植えればいいともあり、人材育成の在り方を説く。グローバル化へ向けた此本流の育成法は、まさにこの教えに通じる。

08年10月のモスクワ支店の開設も、主導した。ベルリンの壁が崩れ、ソ連が解体し、新しい秩序づくりを目指す欧州。前年から「どこに拠点を置くべきか」と調べ始め、いわゆる「BRICs」の台頭を考慮してモスクワを選ぶ。旧共産圏は、急速に市場経済へ移行しなければいけなくなり、すべてをつくり替えなければいけない。需要は大きい、と踏んだ。

支店を置いて4年目、モスクワの大都市問題を解消するプロジェクト「2025年までのモスクワ市発展戦略」を提案した。モスクワは1000万人以上が住み、中心部のクレムリンにすべてが集中し、かつての東京のように交通渋滞や環境問題などが噴き出していた。東京は、80年代から90年代にかけて、国の研究機関や工場を移転させ、さいたま新都心を開発。何重もの環状道路を計画し、沿道に物流センターを配置して、空いた都心部に付加価値の高い商業施設をつくることを、考えた。その広域的な都市再構築の経験が、モスクワの処方箋づくりに生きる。

常務執行役員のコンサルティング事業本部長としてプロジェクトを統括したが、「莫如樹人」が進んで後継者も育ち、割り振りがずいぶんできるようになっていた。

2016年4月、社長に就任。企業としての成長のカギは、グローバル展開だ。アジアやモスクワの仕事は、日本で蓄積した地域発展戦略を「輸出」する形で進めたが、これは第1段階。第2段階では、グローバルにある知恵を、グローバルに使う。それには、欧米のIT分野に強いところを買収するか、連携し、その人材の知恵を使っていくのが選択肢になる。

いま、コンサル案件の3割が海外で、人材は約1000人になった。2020年には、半数が海外で働くようになる、と想定する。国籍を問わず、世界にいっぱい人材を置いていく。それが夢で、「莫如樹人」が本格化する。

野村総合研究所 社長 此本 臣吾(このもと・しんご)
1960年、埼玉県生まれ。85年東京大学大学院工学研究科修了後、野村総合研究所に入社。台北支店長、産業コンサルティング部長などを経て、2004年執行役員コンサルティング第三事業本部長、10年常務執行役員、15年専務執行役員。16年4月より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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