痛感した日・中「経営姿勢」の違い

2006年夏、執行役員でコンサルティング事業本部副本部長のときだ。「これは、自ら手がけねばならない」と思った案件が、届いた。中国最大の都市で商業や金融の中心地の上海市が、さらに空路と陸路を結ぶ大ハブ機能も発展させたいと、提案を求めてきた。

野村総合研究所 社長 此本 臣吾

虹橋国際空港を中核にして、北京と結ぶ高速鉄道や南京、杭州などとの都市間鉄道、上海市内へのバス路線や周辺都市への長距離バス網などを、どう整え、発展につなげるか。東京駅と羽田空港を統合した、あるいはそれ以上の規模と機能を揃えた世界最大級の総合交通ハブのプロジェクトで、隣接する産業都市づくりも課題。野村総研は、全体のコンセプトと開発計画の策定、総合交通ハブとして導入すべき機能の選択、周辺地域の産業発展のための戦略などを、受け持った。46歳のときから48歳まで、その陣頭指揮を執る。

中国関係の仕事は、前号で触れた2000年までの台北勤務で、何度も経験した。華僑の経営者たちが求めるコンサルは、日本よりもずっと合理的で、厳しい。日本では、内々に「こうやる」と決めていても、それを経営会議などで正当化するために提案がほしい、といった仕事がある。

だが、華僑の人々からは、そんな甘い注文はこない。いくら分厚い提案書をつくっても、実践して利益を出せる内容でなければ、相手にされない。台湾時代、徹底的に「理屈よりも実践」「要は価値を生むかだ」と鍛えられた。トップが自ら考え抜き、それでも「どうすべきか、わからない」というときに、「やるかやらないか、その答えを出せ」との注文ばかり。日中の経営姿勢の違いを、感じた。

台北から帰国後、製造業のコンサルティング部長や執行役員になっても、中国関係の仕事は部下に任せず、自分で続ける。経済のグローバル化が進むなか、日本企業にとって中国とどう付き合うかが、大きな課題になっていた。でも、根拠なく「チャイナリスク」をあおる評論家らがいて、日本を代表する大企業でも中国への大型投資や合弁事業に不安を抱く。その決断を支える仕事を担うには、まだ後継者が育っていなかった。

日本の経営陣には、とくに中国流の交渉の進め方について、解説した。日本側は、しばしば相手の言うことをまともに受け止め過ぎて「無理難題だ。そんなこと、できるわけがない」と騒ぎになる。そこで、台湾以来の経験から「いや、実は、ああいうことを言っているが、本当はこういう意図があってあんな言い方をしているのです」と説明すると、「そうか。それなら、返事の仕方はこうしなければいけないね」と収まる。

野村総研の海外拠点は、94年の台北に始まり、ソウル、マニラと続き、02年7月に上海にも設立した。中国のWTO加盟で、日中双方でコンサルの需要が増えるとみたからだ。そのころの口癖が「アジアでナンバーワンのコンサルティング会社になろう」だった。

もちろん、世界で戦う基盤を持ちたい。ただ、コンサルはやはり欧米型ビジネスで、米国中心だ。市場規模で言えば、米国が5で欧州が3、その他が2で、その一部が日本という状況。米国勢は世界の市場で力を蓄えており、彼らに体当たりしてみても、ほぼ勝ち目はない。でも、アジアなら地の利もあり、「この領域なら、アジアでは野村総研が一番だ」と言われる強みを、つくれると考えた。

その強みが、地域発展戦略だ。日本は戦後、首都圏の整備から全国の高度技術集積都市(テクノポリス)の構築まで、政府主導でインフラ整備と産業振興を組み合わせた地域開発を進めた。その際に手伝った経験が、蓄積してある。中国は20世紀初頭、そのノウハウを、強く欲した。代表的な例が上海プロジェクトで、重慶や蘇州でも同様の貢献ができた。