大蔵省から米国のマッキンゼーへ

【田原】進学先は東大農学部。どうして宇宙ではなく農学なんですか?

アストロスケールCEO 岡田光信氏

【岡田】じつは環境問題にも興味を持っていました。大学時代は酸性雨の調査であらゆるところの雨をペーハーセンサーで測ったり、学校の食堂の割り箸をすべて竹箸に変える運動をしていました。地球の環境問題を解決するなら、やはり農学部かなと。

【田原】ところが、大学院の修士課程を中退して大蔵省(現財務省)に。どうしてですか?

【岡田】アカデミアの世界で環境問題に取り組んでいましたが、解決を目指すなら政策に影響を与えられる立場になろうと、途中から国家公務員の法律職を目指しました。

【田原】入省後はアメリカのビジネススクールに留学しますね。向こうでどんな刺激を受けましたか。

【岡田】主計局で3年働いた後、国費留学プロジェクトでMBAを取りにいきました。当時のアメリカはいわゆるドットコムブーム。MBAのクラスメートが「起業する」と毎週2~3人がやめていく状況でした。学生が2億~3億円を調達してビジネスを始めてしまう。そのダイナミックさには心底驚きました。自分もその世界に身を置きたくなって、大蔵省に退職届を出し、留学費用はお返しして、私費留学に切り替えました。

【田原】卒業後は米国のマッキンゼーに就職します。

【岡田】本当は起業したかったんです。でも、2000年春にドットコムバブルが弾けてナスダックが暴落。多くのファンドがなくなってベンチャーをやる選択肢はなくなりました。当時は大変でしたね。株を運用して学費を払っていたクラスメートたちは学校をやめざるをえなくなったし、就職しようにも就職口がなかった。私は22社受けて、かろうじて2社受かった。その1つがマッキンゼーでした。マッキンゼーでは、ハイテク関係の製造業や製薬業のコンサルティングを担当していました。

【田原】その後、独立してIT企業をつくった。

【岡田】正確にいうと、創業10年くらいの赤字IT企業に入って立て直しをしました。リナックスというオープンソースのOSをより使いやすいものにして、サーバーやパソコンの会社に販売する会社です。うまくいって、上場までこぎつけました。

【田原】それから?

【岡田】こんどはゼロから会社を立ち上げました。シンガポールに本社を置いて、インド、インドネシア、中国、日本で事業を展開しました。