インターネットが世界を結び、経済がグローバル化するに従って、日本人のマインドセットのうちの幾つかはすっかり「時代遅れ」になっている。そのうちの一つが、「英語」の能力だろう。

明治維新で、急速な近代化を成し遂げたことは日本の誇りである。その際、「文明の配電盤」としての大学が組織され、英語をはじめとする外国語の習得が行われた。初期にこそ、外国人講師による原語での講義が行われていたが、やがて急速に日本語で学問ができるようになった。

今日、社会科学で使われる中国語の7割程度は、明治期に作られた「和製漢語」だという。「科学」や「哲学」「経済」といった言葉を生み出した先人の苦労には自然に敬意が込み上げる。

曲がりなりにも母語で学問ができることの素晴らしさを、改めてかみしめたい。

ところが、日本語が高度に発達したことが、逆に日本人の呪縛になっている。英語習得が、日本語との間の「翻訳」を前提にしたものになっていること。例えば、京都大学の英語の入試は、英文和訳、和文英訳のみである。明治以来の大学における学問のかたちを反映した、いわば「レガシー」の姿がそこにある。

英語で直接発想し、やり取りを重ね、自分の意見を表明する。グローバル化した世界において不可欠なそんな言語能力が、日本の教育システムにおいては培われない。その結果、例えば、日本に拠点を置きながら、英語で世界に広く思想を問うタイプの学者がほとんど見られないという、日本のプレゼンスにとって由々しき事態が生じている。