【田原】12年には現地法人のADMもつくった。

【合田】それまでNEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)と継続的にお仕事をしていましたが、11年から5年間の国際共同プロジェクトが新たに決まり、これからまた5年やるなら、研究だけではなく事業もやってみようと現地法人としてADMをつくりました。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】そこで燃料をつくってどうするんですか。日本に輸出するの?

【合田】いえ、経産省がアフリカの無電化エリアに灯りを届ける政策を推進していて、私たちがヤトロファという熱帯植物からつくった燃料で発電機を動かすことをやっていました。

【田原】モザンビークの農村部は電化率はどれくらいでしたか。

【合田】当時で1.7%。夜は真っ暗で、星がきれいです。

【田原】電化率2%弱だと、燃料をつくっても住民は買えませんね。

【合田】いままで電気がなかったから、住民は電化製品を持っていません。新たに買ってもらうのもハードルが高いので、充電式のランタンを用意して、必要なときだけ貸し出しするモデルにしました。また、キオスク(小売店)をつくって冷蔵庫や製氷機を置いて冷たいビールを販売したり、電気エネルギーを使ったサービスを提供するという形で電気の普及を図っていきました。

【田原】何店舗つくったんですか?

【合田】漁村と内陸農村部に3つ。モザンビークの農村は、1つの村で2000~8000人住んでいます。小さい村でもキオスクが4~5軒。ほかのキオスクは電化されていませんが、私たちのところでは電気サービスを受けられます。

【田原】さて、今日の本題です。そのキオスクで電子マネーを導入したそうですね。経緯を教えてください。

【合田】きっかけは、お店のお金の勘定が合わないことでした。モザンビークの大卒者の給料は10万円くらい。キオスクの月商が1店30万~40万円なので、そんなに高給の人は雇えません。そのため村の小学校を出て最低限の算数はできる水準の人を雇うのですが、彼らに店番を頼むと数字が合わない。3店とも、見事に現金が足りないんです。

【田原】単に計算間違い? それとも悪意があって盗んじゃうのかな。

【合田】そこはわからないです。店番の人は「妖精が持っていったんじゃないか」と言ってましたが(笑)。