食料品店だったふくやは、中洲の発展とともに成長した。川原家のルーツは福岡県朝倉郡だ。川原家が釜山で事業をしていた関係で、ふくや創業者の川原俊夫は釜山で生まれ育っている。終戦後、福岡に引き揚げて中洲で商売を始めた俊夫は、よそ者の自分たちを受け入れてくれたと、中洲や博多への感謝の念を持ち続けたという。

地域の無病息災を祈る神事・山笠と、地元への感謝と恩返しを行動に移してきた俊夫の思いは、重なって見える。

俊夫以下、長男・健(73・現相談役)、次男・正孝(67・現会長)、孫で現社長の武浩(45)まで、山のぼせの経営者が続くふくや。だが、新入社員の山笠への参加を認めたのは、今年度が初めてだ。

大黒流の赤手拭、大野雅士(37)は、27歳のときにアルバイト入社し、翌年社員登用された。入社以来、山笠と仕事を両立してきた。

「何を残して、何を変えていくのか。山笠も企業も同じ」と語る大野雅士(撮影・比田勝大直)

大野も赤ん坊の時から大人たちに抱かれて山笠に出続けている。フェンシングの活動のために出られなかった高3から大学2年までの3年間を除くと、山笠を欠かした年はない。法政大学卒業後、地元福岡に戻ってからの大野は、山笠を続けながら中洲川端商店街の仏具店でアルバイトをしていた。そろそろ就職をとの焦りもありつつ、山笠との両立を認める会社があるとは思えず、迷いが続いていた。

あるとき、 法政大学の先輩OBがバイト先に大野を訪ねてきた。ふくやに勤めるというその人と面識はない。法政大のOB活動に声をかけられ、一緒にやっているうちに、ふくやで働かないかと誘われた。アルバイトからだが、バイトなら山笠との両立はできるし、将来は社員登用の道が拓ける可能性もなくはないという話だった。それがふくやで働くきっかけとなった。

「あとで知ったんですが、正孝会長と母親が知り合いで、会長が母から僕が山笠をしながら働ける仕事を探していると聞かれたみたいなんです。直接ではなく、法政大の先輩経由で、僕が負担に思わないように配慮して声をかけてくださったことがわかったとき、ありがたいなと思いました」

大野は、自分たちが子どもだった頃とくらべて地域のコミュニティーが変質していることに違和感を持っていた。

「僕らの頃は、近所のおいちゃんとふつうに話せたり、困ったことがあると助けてもらったりできてました。そもそも、気楽に挨拶ができる雰囲気がありました。その土壌を今の子どもたちにつなぎたい。防犯にも役立ちます」

大野は小4と小2の娘の父でもある。