なお、高師直も新興武士層の代表格のようにみなされてきたが、近年の研究では北条氏や足利氏の譜代の家人(「御内人」「御内」)の多くが幕府御家人も兼ねていたことが解明されてきている。師直もまた、というより彼こそが東国の伝統的な御家人階層出身の保守的な武士だったのである。

「守護」の役割とは

第二に、師直の軍団についても過大評価はできない。師直の軍事的権限は、基本的に他の守護たちと同格であった。高師泰(こうのもろやす)が侍所頭人を務めたことが軍団形成に大きく寄与したともされてきたが、彼が侍所だったのは幕府草創のごく一時期にすぎない。高一族では、かろうじて南宗継(みなみむねつぐ)が暦応元年(1338)から翌2年にかけて侍所頭人となったにすぎず、直義派の有力者であった細川顕氏(ほそかわあきうじ)の就任期間の方がはるかに長かったほどである。

そもそも軍事指揮権も侍所も、当時は三条殿足利直義が掌握していた。師直や師泰は直義からその権限を委任されて、現地の指揮官として北畠顕家(きたばたけあきいえ)や楠木正行と戦ったのである。

また高一族の守護分国についても別の機会に詳しく検討したことがあるが(『高一族と南北朝内乱』)、彼らの分国は主君足利氏が鎌倉期に守護を相伝した三河および武家政権の聖地である武蔵を除いて、全国に散在し、在任期間もごく短かった。

足利直義が制定に深く関与した『建武式目』の第七条は、守護職は軍忠に対する恩賞であるとする考えを明確に否定し、守護は古代律令国家の国司に相当する役職で、家柄や世襲ではなく能力で守護の人選を行う方針を謳っている。国は守護の私物ではないとするいわゆる「守護吏務観」であるが、この守護吏務観にもっとも忠実だったのが高一族なのである。

そして実際、たとえば和泉国の田代氏・淡輪氏・日根野氏といった国人は、細川顕氏(直義派)→高師泰(師直派)→畠山国清(直義派)と守護が交代するたびに所属を変えており、師直派は畿内国人を完全には掌握しきれていない。

党派対立がない戦 

第三に、最大の問題は、この説では擾乱の急激な展開をうまく説明できないことである。いくら当時の武士たちがたやすく勝ち馬に乗る存在だったとしても極端すぎる。両派の政策志向や支持基盤が明確に異なっているのであれば、これほど頻繁には武士たちの離合集散は起こらないと考える。

また、伝統的な武士層や寺社勢力と新興武士層の対立は、擾乱の後はどうなったのだろうか。この問題についても、先行研究は「将軍権力の一元化」と抽象的に表現するのみだ。両者の対立は具体的にどう解決されたのか。これは南北朝時代の政治史最大の問題である。

要するに、直義と師直の支持層に明確な相違があったとする佐藤説は、例外が多すぎるのである。そもそも擾乱第一幕で直義派に所属した守護たちは、桃井直常(もものいただつね)・石塔頼房・上杉憲顕(うえすぎのりあき)などを除いて、大半が直義優勢が明確になってからその旗幟を鮮明にした者ばかりである。山名時氏(やまなときうじ)・佐々木六角氏頼(ろっかくうじより)・上杉朝定(うえすぎともさだ)・同朝房(ともふさ)といった直義派の中核とみなされることが多い武将でさえ、八幡の直義の許へ奔った時期は相当遅い。

明確な支持層の違いなど存在せず、両派は基本的に同質であった。否、そんな党派対立など存在しなかった。明確な派閥が形成されはじめるのは、どんなに早く見積もっても貞和4年(1348)正月の四条畷の戦い以降であった。そして一部の武将を除いて、その構成も最後まで流動的であったとするのが筆者の意見である。

亀田俊和(かめだ・としたか)
国立台湾大学日本語文学系助理教授
1973年、秋田県生まれ。97年、京都大学文学部史学科国史学専攻卒業。2003年、京都大学大学院文学研究科博士後期課程歴史文化学専攻(日本史学)研究指導認定退学。2006年、京都大学博士(文学)。現在、京都大学文学部非常勤講師。17年8月より国立台湾大学日本語文学系助理教授