「次代を担う」人材も登用

クロックはワンマン経営者の一方、自分の限界も悟っていました。早くから「参謀役」や「次世代を担う」であろう人物を3人見抜いています。出会った順に記します。

ジューン・マルティーノ(のちにマクドナルド財務責任者となる女性。1948年に求人に応募)
ハリー・ソナボーン(のちにマクドナルドの最高財務責任者となる男性。1955年に出会った当時39歳。テイスティフリーズ社の副社長を辞してマクドナルド社での雇用を希望)
フレッド・ターナー(のちにクロックの後を継ぎ、マクドナルド社2代目社長。1956年に出会った当時は23歳。マクドナルドのフランチャイズ広告を見てFC店に応募)

特に、ハリー・ソナボーンとフレッド・ターナーは、クロックの築き上げた「ハンバーガー帝国」に欠かせない経営人材となります。やがて経営方針の違いからソナボーンはマクドナルド社を去るのですが、クロックは彼の有能さを惜しみます。自伝には「トップは孤独だ。これを最も痛烈に感じたのは、ハリー・ソナボーンが私との口論の後に、会社を去っていったときだ」と記しています。

もっともこう記せたのは、クロックの75歳の誕生パーティーに、次の"雪解け"があったからでしょう。

「なかでもジューン・マルティーノとハリー・ソナボーンに再び会えたことは至上の喜びだった。ハリーとは今後いっさい会うことはないと確信したときもあったので、彼が私の方に手を回し、『レイ、君は私のいちばんの親友だよ』と言ってくれたときはとてもうれしく、すべてのことがうまくいくように思えた」(『成功はゴミ箱の中に』より)

経営で見せる冷徹な判断の一方で、生身の人間性も隠さないレイ・クロック。彼の現場主義は米国企業の中では特異なもので、自伝タイトルの『成功はゴミ箱の中に』は、「ライバル会社のことが知りたければ、その店のゴミ箱の中をみればすべてわかる」というレイ・クロックの強烈な言葉から来ています。

レイ クロック (Raymond Albert Kroc/1902-1984)
1902年米国・シカゴ郊外のオークパーク生まれ。高校中退後、ペーパーカップのセールスマン、ピアノ演奏者、マルチミキサーのセールスマンなどで働く。1954年、マクドナルド兄弟と出会い、「マクドナルド」のフランチャイズ権を獲得、全米展開に成功。1984年には世界8000店舗へと拡大した(現在「マクドナルド」は世界118の国・地域に約3万店を展開)。後年にレイ・クロック財団を設立。メジャーリーグのサンディエゴ・パドレス獲得など精力的に活動した。
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