メディアはバージョン違いの磔刑を繰り返している

ニーズがある情報を提供するのがメディアのミッションだという意見は、確かにそうだとも思う。でも、ニーズがあることを言い訳に、本来画面に映すべきでないトピック、静かに見逃すべきトピックを執念深く流し続け、揚げ句自前で集めたコメンテーターたちに(本人たちが望んでいるかどうかとは別に、役割分担として)大して重要性も正当性もないコメントをさせて放送の尺を埋めることに、果たして正当性はあるだろうか。

それはテレビに限らず、テキストメディアでも同じことだ。紙でもWebでも、本当に必要なことを書いているだろうか。時間とノルマに追われて、とにかく紙面・誌面が埋まればいい、数字が取れればいいと、スケープゴートが現れるとハイエナのように集団で群がって骨までしゃぶるメディア産業のピラミッド構造の末端にいる者として、私も「社会的磔刑」に加担してきてはいないかと自問自答する。「批判」は強者に向けてするもので、そうでなければ「いじめ」であり「集団リンチ」だと信じてきた。だが、いま日本社会挙げて、その基準は非常に危うくなっている気がする。どこかで、集団の溜飲さえ下がれば、なんでも正当化されてしまう気がする。

不倫報道でたたきのめされた、あるミュージシャンの新曲の歌詞が新鮮だった。
「何も知らないくせに出しゃばって」「本当に品がないな君たちは」「量り売りの言葉で傷つけて」「まともだと思い込んでいるだけ」……まったく、不倫報道などするほうが品がないし、ゲスではないか。

日本社会よ、本当に「集団で罰を与えるのが好き」だな、君たちは。