机の上は常に整頓、書類は積まず廃棄

社長になっても、会長になっても、机の上には書類がほとんどない。これは、冒頭の本店営業第7部長のころに定着した。後で必要になりそうな書類は積んでおき、さっと出してくる先輩もいたが、どこに何を置いたか覚えておくのも大変だから、どんどん棄てる。仮に必要になれば、またもらえばいい、と割り切っている。

第7部長のころに、もう1つ。金融の自由化が進み、生命保険会社と損害保険会社が子会社をつくって、相互に参入できることになった。そこへたどり着くまで、両業界は危機感を高め、「聖域」と言えるところは守ろう、と抵抗した。それは、守れたほうが楽だ、とは思う。でも、内外の状況を俯瞰すれば、自由化には抗しきれない、とみた。ならば、抵抗しながら徐々に受け入れるのではなく、会社に体力があるうちに一気に進めたほうがいい、と考えた。

社内も業界にも、その考えは否定されたが、結局は米国からの圧力をさばいた当局の判断で、自由化は決まる。そんななか、完全自由化された企業向け保険の司令塔である企業商品業務部長へ転じ、新たな針路の舵取りを託される。

自由化を迎え、明治以来の再保険と戦後の自動車保険、それに企業保険があれば、会社の将来はあるのか。毎晩、部の次長と酒を飲みながら、そのことばかりを論じた。結果、新たな針路には、ニーズをもっと受け止めるために商品の種類を増やす必要があるし、市場も広げていかねばならない、との答えに至る。そこで、商品と市場の組み合わせ表を作成した。

縦の商品の欄には、伝統的な損害保険に加え、生保と相互乗り入れとなる医療保険やデリバティブ(金融派生商品)などを書き込んだ。横の市場欄には、国内の企業や個人のほかに、アジアや欧米など海外市場を置く。できた組み合わせ表を次長とみながら、さらに議論を重ね、選んだのがデリバティブと欧米が重なる世界だ。

そのころ、保険とデリバティブを合体し、債務を交換してリスクを抑える仕組みができていて、再保険がぴたりとはまる。また、大西洋の北西部にある英領バミューダに、その種の会社が集積されていた。つまり、バミューダに再保険会社をつくればいい、となる。それも、再保険を受け持つ海外部門に任せるのではなく、自らが率いる部でやることを、提案した。

ただ、当時の社長は、過去の海外投資の失敗例からきわめて消極的。賛成者は少なかった。でも、役員たちを「これが、必ずや会社の将来を支える」と説き、ここでも「識時務者」の役を果たす。ついには役員の過半が同意し、経営会議で渋る社長を押し切った。

125億円の出資、2人の出向者で始めた再保険子会社は、いま本社をスイスへ移し、米国にも拠点を広げ、180人で1600億円規模の業容に成長。海外展開の礎となった。社長になった07年の翌年春、英国の損保会社を1000億円余りで買収。同年末には米国の保険会社を約5000億円で、さらに2011年にも米国の生保や資産運用の会社を約2000億円で買収した。こうしたM&Aの決断にも、バミューダでの子会社設立が、源流となっている。

東京海上ホールディングス会長 隅 修三(すみ・しゅうぞう)
1947年、山口県生まれ。70年早稲田大学理工学部卒業、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)入社。95年本店営業第七部長、98年企業商品業務部長、2000年取締役ロンドン首席駐在員、02年常務、05年専務、07年社長。09年東京海上ホールディングス社長、13年より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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