後輩を叱責した苦渋の涙

小久保裕紀が前代未聞の「無償トレード」で巨人へ移籍したときもそうだった。当時、球団上層部が経営面や人事面でごたごたしていたこともあって、中内正オーナーが大学の後輩である小久保のために、と独断で決めたものといわれた。選手会は反対して優勝旅行に行かない騒動になった。王は「四番を無償で出すとは異例すぎる」と球団のやり方を批判した。そういういきさつがあって出て行った小久保がボロボロになって巨人から帰ってきた。王は、「よその飯を食ったのはいい経験だったな」といって迎え入れた。

筋道の外れたことを嫌うのは若いときも同じだった。巨人時代の昭和43(1968)年に、門限破り常習の若いエース堀内恒夫を殴ったことがある。遠征先の名古屋の宿舎で、堀内は門限の少し前に帰ってきたのだが、部屋にはいる前に玄関口で大声で電話していた。それを聞きとがめた王が2階の大広間へ連れて行って、座らせて一発殴った。かねてどこかで戒めねばと思っていたのだろう。堀内は、「なにするんだ!」と怒って見返した王の頬に涙が光っているのを見て、二発目を殴られた。以後、堀内は大っぴらな門限破りを慎むようになった。王が28歳のころである。

巨人時代の昭和50(1975)年。就任したばかりの長嶋茂雄監督が最下位に低迷したその最中だった。目撃したのは広島の中華料理店でだった。試合の後、王は柴田勲、土井正三らとテーブルを囲んでいた。会話は試合の反省からメートルが上がるにつれて、ことに柴田と土井が、店の隅にマスコミ数人がいるのを意識してかしないでか、長嶋監督の采配批判に発展していった。王は2人の激しい語りを笑いながら聞いていたが、やがて、「もういいだろ。気が済んだか」といって黙らせた。

「プロの選手は、みんな自分が一番だと思っている人種なんですよ。酒を飲んだときくらいいいたいこといわなきゃ、やってられないっていう面もあるんですよ」

その年、王はオープン戦中の故障がたたって不振で、「四番が打てないからね」といいつつ苦闘のシーズンを送っていた。もし王が同僚のナキに同意していたなら、長嶋巨人は空中分解していただろう。

「四番の重責」は、ON時代のNを通して12分に知っていた。川上哲治監督はミーティングでよく長嶋を例に出して叱った。「四番がサインを見落とすから勝てんのじゃ、しっかりしろ!」という具合である。しかし王を怒鳴りつけることをしなかった。川上は、「長嶋は叱ってもさらりと受け止めてくれる。王を叱ったら口をきいてくれない」と2人の性格を知って長嶋を叱られ役にし、長嶋もわかっていたのだったが、王は、「それだけ四番は重責なのだ」と肝に銘じていたのだ。

ホークスでは四番の松中信彦に気を使っていた。担当記者は、「松中は見たところはサムライ豪傑みたいだけど、実は気が小さくて、くよくよするたちで、打てないと滅入ってしまうし、くそ真面目で、仲間の面倒見はよくない。選手間では人気がない」と松中を評している。入団時から守備が下手くそで、「ゴロをポロポロやるどころか、バックホームや三塁へ山なりの球しか投げられなかった」ともいっている。根が真面目だから練習して何とか投げられるようになったが、守備下手は相変わらずである。

パ・リーグにはそういう選手用にDHという便利な使い方があり、王もDHで起用した。ところがその松中が、「守らせてください。打つだけだとリズムが狂いますから」といってきたのだ。コーチたちは反対する。しかし王は松中の意向をくみ入れた。

「四番には四番のプライドがある。少しくらい下手だって打てばいいのだ。ボクだってチームで一番守備が下手だったんだから」

といって松中を先発で守らせて四番で使い続けて、三冠王を取らせた。

余談になるが、北京五輪の星野ジャパンの敗因の一つは「日本の四番がいなかった」ことだったと思う。四番になりたての阪神・新井貴浩や、まして横浜・村田修一や埼玉西武・G.G.佐藤では荷が重すぎた。対して韓国は、巨人で二軍落ちしていたイ・スンヨプを四番に置いて、打てなくても打てなくても外さなかった。その四番が準決勝でホームランを打って日本を死地に追い込んだ。対キューバの決勝戦でも打った。イ・スンヨプはWBCで四番を打った「韓国の四番」である。日本でそれに匹敵するのが松中だった。星野ジャパンは、その「日本の四番」がまだ健在だったにもかかわらず、選んでいなかった。