問いかけられていたことは何か

もちろん商品化された社会にもよい点はある。お金がなければ何もできない社会は、裏から見れば「お金さえあれば個人の自由が最大限尊重される」社会でもある。よくネットでは「従来の生活を守りながら経済的に小さくなろう」という意見と、「経済的な縮小は弱者の生活から破壊する」という意見が対立するのを見かける。前者の中で目立つのはどうやらシニア世代のようなのだが、その背景にあるのはおそらく「経済的な自立によって得た自由を手放すくらいなら縮小のほうがまし」という価値観だ。

「不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~」52ページ

死にそうな目にあっても自由のほうが大事、という価値観は、個人的に表明する分には勝手なのだが、社会全体の人々を巻き込むものとしてはいただけない。とはいえ、商品化された社会を前提に、「誰もが商品市場に参加できるような経済を維持する」というビジョンもあり得るのは確かだ。商品化された生活を十全に送れないのは、まずもって大企業による雇用の流動化、労働者の使い捨てが引き起こした問題なのであり、企業はこれまでと同じように、真面目に働く人は誰でも安定した生活を送れるようにすべきだというのが、以前からの左派の主張だと言えるだろう。

こうした主張に対してあり得る反論が、ライシュやギデンズの唱える「もはや黄金時代の雇用を維持・再建するのは無理」というものだ。単純労働は機械によって効率化される一方で、高付加価値な製品・サービスを生み出すためのアイディアを生み出す力は誰にでも備わっているわけではなく、人々の格差は拡大する傾向にある。さらに言えば、サービス経済の進展も含め、人々の価値観や生活スタイルは多様化する傾向にあり、規格化された人生だけをモデルコースと捉えるこれまでの見方にも大きな問題がある。

いまとは別の資源配分が必要

そういったわけで、例えば産業構造の変化に代表されるような社会の変化に対応した、新たなポリシーや理念が必要だという話になるのだが、これも一筋縄ではいかない。おそらく大企業の正社員がもっとも恩恵に浴することができる商品化された生活圏のオルタナティブを拡大するという点では、「変化」を求める側の立場は一致するように思えるが、ざっと思いつくだけでも、以下のような立場がある。

(1) 政府は財政を拡大し、従来のセーフティーネットからこぼれる人たちへの手当を拡充すべきだという立場。反緊縮・高福祉という点を考えると、いわゆる「リベラル」や、リフレ派の一部の左派が当てはまるのかもしれない。ちなみに先の大統領選でサンダースの応援に回ったライシュが取るのもこの立場だ。

(2) 政府が財政を拡張するのではなく、民間への規制緩和を通じて、市民が市民を支えあう新たな仕組みの登場に期待すべきだという立場。この中には、シェアリングエコノミーやギグエコノミーと呼ばれる、ネットの仕組みを活用した資源分配、休眠資産の活用、副業の推進などに期待するサイバーアナーキストも含まれる。

(3) 政府は緊縮を進める一方、民間への規制緩和によって企業が自由な活動を行い、その結果として経済成長が進むことでトリクルダウンが起き、人々が商品化された生活に参加できるようにするべきだという立場。格差の縮小よりも、人々の自由と自己責任を重んじるという点で典型的な新自由主義だと言える。

(4) 政府が規制を強化することで大企業への課税を行い、同時に移民の権利などを制限することで、自国民の生活を優先的に支える「大きな政府」を目指す立場。トランプや欧州の一部のポピュリズム政党の立場がこれに当たる。

これらをまとめて論点化すると、以下のようになるだろうか。

A.産業構造の変化に抵抗し、誰もが自由で安定した生活を得られる製造業中心の社会を維持する(従来の左派)

B.産業構造の変化を不可避なものとして受け入れつつ、商品化された生活のオルタナティブを目指す
B-1.財政拡張によるセーフティーネットの拡充を目指すリベラル、リフレ左派
B-2.緊縮と規制緩和を通じて、オルタナティブな市民の支え合いを促すリバタリアン左派、サイバーアナーキスト
B-3.緊縮と規制緩和を通じて、人々の自由と自己責任が重んじられる社会を目指すリバタリアン右派、ネオリベ
B-4.大企業への規制強化と移民の権利制限を通じて、自国民の生活を第一に優先する右派・左派ナショナリスト

上記の区分は、いくつかの変数をひとまとめにした理念型的なものであって、別様の組み合わせもありうる。たとえばトランプの政策はAとB-4の組み合わせだが、他方で規制緩和も行うというものだ。またB-1とB-2を両睨みにする立場もありうるし、議論の火付け役となった経産省の資料では、B-2ともB-3とも読み取れるフシがある。なので、とうてい整理されたものとは言えないのだが、わざわざこういう分類をしたのには理由がある。

今回、発端となった資料に対する反応は、おおむね「AではなくてBであるなんて言い古されたこと」だという前提から出発している。その上でB-1が大事なのにB-3とはけしからん、といった論点が挙がっているように見えるのだ。しかし、「AではなくB」というのは、それほど共有された前提だろうか。

社会全体としてどうか、という点についてデータをもとに考えることも大事なのだけれど、おそらくこの資料に対する最初の称賛的な反応の理由は、「AではなくB」という主張が明確に打ち出されたことにあったのだと思う。最近のネットの利用者の中心はミドル世代らしいのだけど、昭和の製造業ホワイトカラーモデルを前提にした社会の仕組みの前で戸惑い、様々な負担を強いられるこの世代にとっては、「いまとは別の資源配分が必要なのだ」という言葉こそが求められていたものなのだと思う。