福沢諭吉、樋口一葉、野口英世――。貧しい境遇から身を起こし、後世に名を遺した3人のマネー人生は、どのようなものだったのか。

3人とも生まれはかなり貧しかった

1万円札の福沢諭吉、5000円札の樋口一葉、1000円札の野口英世。この3人全員に共通するのは、裕福な家庭の出身ではない、ということだ。お札の顔にするなら、巨万の富を築いた金満家のほうがふさわしい気もするのだが、彼らはなぜ、「お札のカオ」に選ばれたのだろうか。

福沢諭吉は1834(天保5)年、豊前国・中津藩(現在の大分県)の下級武士の家に生まれた。大坂・船場にあった緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んだあと、咸臨丸という幕府の船に通訳として乗り込んで渡米。帰国後は幕府翻訳方となって西欧諸国を視察し、数々の西洋文明を日本に取り入れ、慶應義塾大学の前身である慶應義塾を創設した。

大ベストセラー『学問のすゝめ』では、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と身分社会を批判し、生まれがどうであっても、学問に励めば高い地位につけるような社会にすべきだと説いた。このような考えに至ったのは、かつて下級武士の子というだけで冷遇された経験が影響しているともいわれる。

樋口一葉は72(明治5)年東京生まれ。父と兄を亡くしたあと、事業に失敗した父の借金を背負ったうえ、母と妹を養わなければならなくなる。針仕事や駄菓子屋を営んだりして働くかたわら、『たけくらべ』『にごりえ』などの短編小説を執筆。作家としてこれからというときに、結核を患い24歳で亡くなった。

野口英世は76(明治9)年、福島県生まれ。1歳のとき囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負う。医師免許を取得すると北里柴三郎主宰の伝染病研究所に勤務。横浜の海港検疫官補佐を務めたあと渡米。ペンシルベニア大学、ロックフェラー医学研究所に勤務し、梅毒の病原体であるスピロヘータという菌の純粋培養に成功。黄熱病の原因菌を発見したが(現在の研究ではこの発見は否定されている)、自身も黄熱病にかかってアフリカで客死した。

「諭吉、一葉、英世の3人には“公の使命感”とでもいうべきものがあった。だからこそ、お札のカオに選ばれたのだと思います」

というのは税理士の亀田潤一郎氏だ。

「当時の日本は、いまとは比べものにならないほど貧しかった。そのなかで、自分が金持ちになろうというよりは、日本をもっとよくしようという気持ちを持っていたのがこの3人でしょう」

諭吉は学問、英世は医学、一葉は文学で女性の地位向上に一役買ったという見方だ。

「世界中大抵の国の紙幣には、その国の王様や偉人の肖像画が印刷されている。ということはお金を使うたび、どんな使い方をしているか、その人に見られているということです。公の使命感を持っていたこの3人は、お札のカオとしてふさわしいのでは」(亀田氏)