知人の研修講師が、あるメーカーで当年度に50歳になる社員全員を集めた研修を行った。「60歳の自分」というテーマで5、6人のグループで自由討議を実施したそうだ。そのワークの中で面白い場面があったという。

初めは各グループとも部長や部次長が議論を引っ張っていた。いわゆる社内のエリート層が主導権をもって進めたのである。

しかし具体的な討議を進めていくと、一部のグループでは、高校を卒業して地元の工場で働いている社員たちが積極的に話し始めた。半面、口火を切った部長の声は小さくなり、後半はほとんどしゃべらなくなったそうだ。

なぜ定年後は役職と相関しないか

地元で働いている社員は、60歳以降の自分の生活を具体的に語ることができたのに対して、本社にいる役職者たちは自らの姿が見えないことに気づいた。そして議論の主導権は転換したというのだ。

この研修の話を聞いた時に、甲子園で活躍したことがある社員のことを思い出した。彼はプロ野球を目指していたがドラフトにかかるほどの力量はなかったので社会人野球で選手を続けた。その後引退して、その会社の社員として働いている。

彼は、「プロ野球に進めるだけの力量がなくてよかった」という。なぜかと聞いてみると、プロに入団すれば18歳や22歳で周囲からちやほやされる。収入も普通の社会人では想像できない金額を手にする。しかしたとえ一軍で活躍できたとしても選手寿命は長くはない。コーチや監督で野球の世界に残れる人はほんの一握り。引退した時に、野球以外のことは何も知らないので第二の人生で苦労する人が多いというのだ。「引退しても会社の仕事に打ち込めるのは本当にありがたい」と語っていた。

ここではメーカーで出世した人と地元の工場で働く人との比較や、プロ野球選手と社会人野球選手との待遇を対比するのが本旨ではない。野球に秀でていて、また社内で高い役職を担って脚光を浴びていたとしても引退や定年後には持ち越せないということだ。会社での役職と定年後は必ずしも相関しない。会社の仕事に比重をかけすぎていると、かえって定年後が厳しくなることも考えられる。