だが、実際に提案された製品のコンセプト以上に、海江田はこの「タスク」が有意義なものであったと感じている、と話す。それは自社の若手の社員が「ヤマハ発動機の未来」について、自分たちの世代とは異なる夢と強い危機感を持っていることを知ったからだった。

「『タスク』に集まった彼らは、私たちの世代のような『“もの”をつくってたくさん売ればいい』という価値観から自由でした。僕らの事業は将来、それだけでは成り立たない。そのことを彼らはしっかりと肌で感じていた」

売り上げの多くを担う二輪事業の抱えるジレンマは、新興国の経済が成熟していく過程で「生活の足としての二輪」の需要が縮小していくことだ。四輪車の需要拡大とともに二輪車は「生活必需品」から趣味性の高い商品へと変化していく傾向にある。

柳は言う。

「よって僕らが『ふたまわり』の成長を遂げるためには、新しい事業に踏み出すための種を常にまいておく必要がある。その意味では二輪から三輪、四輪も見据えたっていい。マリン事業についても、より高性能な制御が可能な製品を生み出す余地があるはずだし、また、農業用のヘリコプター、産業用ロボットなどにもまだまだチャンスがあると考えています」

新興国で磨いた伝統芸「需要ごと市場を作る」

自動運転分野においては、アメリカで「MOTOBOT(モトボット)」と呼ばれる二輪車を操るロボットの研究が進められている。いずれはバイクレースの最高峰・MotoGPのライダーであるバレンティーノ・ロッシと対戦する企画も準備されており、数十年後の二輪市場の変化を見据えた研究開発の目玉の一つだ。

海江田が責任者となった前述の「タスク」では、若手社員が明確にそうした「変化」を見据えた危機感を持っていたという。彼らは自動運転や新たなソフトウエアの開発、EVといった「ものづくり」だけではなく、公共交通やインフラのあり方の提案、それらと連動した交通システムなど、幅広い視野で新規事業にまつわる議論を熱心に行っており、海江田は頼もしさを感じたのだった。

1955年、ヤマハ発動機が初めて「YA.1」というモーターサイクルを市場に投入した頃、日本には約200社の二輪車メーカーがあった。多くのメーカーのバイクは商用向けの黒いカラーリングだったが、後発の同社は栗茶色を基調としたほかにない色合いで独自性を出した。「赤トンボ」と親しまれたYA.1ではレース活動にも力を入れ、二輪車における「ヤマハ」の存在感をアピールした。

(上)2015年の東京モーターショーで発表された「MOTOBOT(モトボット)」。(下左)静岡・磐田の本社では歴史車両を稼働できる状態で保存している。(下右)製品第1号「YA-1」も展示されていた。