帰国後、アルバイトからファッション業界へ

【田原】帰国後はソフトバンク・ヒューマンキャピタルに就職された。なぜアパレル業界ではなかったのですか。

【山田】僕が大学を卒業した2006年はアパレル業界の募集がほとんどなかったのです。家業の付き添いで展示会に行くと、メーカーの人は「この業界に先はない。やめといたほうがいいよ」という。昔からつきあいのある取引先の息子でしたから、本音で話してくれていたんだと思います。

【田原】ソフトバンク・ヒューマンキャピタルはどんな会社ですか。

【山田】Webメディアの広告や転職サイトの求人広告を扱う代理店です。もし世界ブランドをつくるなら、まず自分が個人として生き抜く力を身につけておかないと話にならない。そう考えて、営業力を鍛えられる会社に入りました。当時50~60人くらいの小さな会社で、4年やって最後は営業部門の部長になりました。これでどこででもやっていける自信がついて転職しました。

【田原】次は東京ガールズコレクションを運営するファッションウォーカー(現ファッション・コ・ラボ)ですね。

【山田】いよいよファッション業界に入ろうと考えたときに浮かんだキーワードが2つありました。「インターネット通販」と「イベント」です。当時、ZOZOTOWNをはじめいくつかの会社がファッションのインターネット通販で伸びていました。また、東京ガールズコレクションには3万人の女の子が来て盛り上がっていた。ランウェイを歩くモデルが着ている服はその場で携帯から購入できて、その売り上げが何億円。この2つを経験できる会社がいいなと思って、ファッションウォーカーで働き始めました。もっとも、ここも最初はGUCCIのときと同じく裏方でしたが。

【田原】またストック整理ですか。

【山田】はい。倉庫で下請けの物流会社のおじさんたちと一緒にアルバイトで入りました。働きつつ、倉庫での改善提案をいろいろと上に上げていたのですが、いっこうに反応がありません。たまたま本社の役員が倉庫にきたときに直談判したら、「こっちまで上がってきていない。内容はおもしろいから、本社で面接する」とチャンスをもらって、本社勤務に。直後にその役員が社長になったので、社長直轄の部署に入って事業開発の仕事をさせてもらいました。

【田原】ここでも一番下から這い上がったわけね。ファッションウォーカーには何年ぐらいいたのですか。

【山田】2年です。実際に働いてみると、違和感がありました。当時、ファッションウォーカーは100億円の売り上げがあったのに赤字。物流とシステムを外部に委託していて、それが足かせになっていたのです。逆のことをやっていたのがZOZOTOWN。ほかの通販サイトが人気ブランドさえ取り揃えたら勝てると考えてブランド詣でをしていたときに、前澤友作社長は自社で倉庫を持ち、システムも自社で構築していった。その結果、即日発送が可能になって消費者の支持を得ました。ファッションウォーカーとの差は歴然としていましたね。

【田原】将来性がないと見切って辞めたのですか?

【山田】一番は、アメリカ式のマーケティングが行われていたことが大きかったです。メイド・イン・コリアで、300円でつくったものをモデルが着てランウェイを歩くと1万円になる。この現状を変えたくてファッションの道を選んだはずなのに、自分は何をしているのかと。GUCCI時代の友人が日本に遊びにきて、「あのとき話していたことと違うじゃないか」と言われて目が覚めました。