自分が働いて、早く母を楽にさせてあげたかった

母は家族を置いて家出した父の母親の介護もやり遂げました。私が中学生の頃、体が悪くなった義母を私たちが暮らす6畳1間に引き取り、最期を看取ったのです。もちろん私も手伝いましたが、父がいない中、懸命に義母に尽くした母はとても立派でした。その後、「これからの人生をあなたに捧げる」と頭を下げて帰ってきた父を愚痴ひとつ言わず迎え入れ、添い遂げました。余計なことでくよくよせず、朝が来れば普通に生活する……そんな母の姿を心から素晴らしいと思います。

「母の米寿の誕生日に、お金とメッセージカードを渡しました。母が亡くなった後、財布の中には、まったく手つかずのお金とメッセージカードがありました。娘からもらったお金を大事にしまっていたんだ……と思うと、胸が締めつけられそうになりました」

一方の私はといえば、少しでも家計を助けたいと、小学生の頃、母が勤める電機工場の社長からご紹介いただいた貿易会社でお茶出しをしたこともありました。今では考えられませんが、働くのが当たり前でしたし、何の違和感もありませんでした。当時から「高校を出たら働くのは当たり前。自分が働いて、早く母を楽にさせてあげたい」という気持ちを強く持っていました。

今思えば、母は「ああしろ、こうしろ」と私の生き方に口を出したことはありませんでした。礼儀、礼節は厳しくしつけられましたが、私生活にも進路決定にも口を挟むようなことはなく、私は人生の岐路に立ったとき、当たり前のように1人で決めてきました。ただ一度だけ、私が「ファーレン東京株式会社(現・フォルクスワーゲンジャパン販売)」の代表取締役社長にスカウトされたときだけは、こう言いました。

「なぜそのような重責を進んで担おうとするのか」と。質素な生き方を好む人だったので、あの当時は私の生き方が理解できなかったのではないでしょうか。

私が子どもの頃はみんなが貧しくて、近所の人たちで助け合うことが日常で、物の貸し借りも気軽に行われていました。人が人にやさしかった時代……今よりずっと、人と人との関係が濃い時代でした。早くから社会に出て働き、転職を重ね、人の絆の素晴らしさをたくさん学びました。助けられたこともあれば、つらくあたられたこともありますが、今思い返してみると、こうした経験のすべてに感謝したいという気持ちになります。

最近、亡くなった母のことをよく思い出します。苦労を重ねながら晩年は幸せに暮らし、89歳まで長寿を全うしました。なんて素敵な人だったんだろうと……。共に過ごす時間は多くはなく、娘を抱きしめるというようなことはしないクールな母親でしたが、私の結婚後、共働きで家のことを十分にできないのを見かねて、父と2人で掃除に来てくれることもありました。本当は娘のことをもっと構ってあげたかった、という思いがあったのかもしれません。自分がこの年齢になってみて、今、大いなる母の愛を感じています。