スティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』(キングベアー出版)に、緊急度と重要度による時間管理のマトリックスの話が出てきます。緊急度の高いものと重要度の高いものがあった場合、人は緊急度の高いものに引っ張られがちで、重要度の高いものになかなか手がつけられず、その結果、後からそれが大きな問題として浮上してきます。東芝の今回のケースは、まさにそういうことだろうと思います。会計不祥事の後に、このような問題が出てきたことは、ある意味必然だったのかもしれません。

よくよく考えてみると、粉飾決算を招いた「チャレンジ」と称した過剰な業務目標の要求も、今回のWHの件も、根は同じかもしれません。どちらも、短期的な目的に注意が集中したために、本当に重要なことは何かを見失い、結果として粉飾決算と巨額損失を招いたと言えます。

『きのうの専門家』でも『あすの専門家』ではない

もう1つのポイントは、経営の意思決定を専門家に委ねてしまっていたように見えることです。WHの買収に携わった佐々木則夫元社長は原発の専門家でした。しかし、その後の社長には原子力事業に詳しくない人が続きました。そのため、専門家に「これは大丈夫です」と言われると、「専門家がそう言うなら」と、専門家に判断を任せてしまっていたのではないかと思います。

経営者は、専門家に任せることも大事ですが、すべてを任せてしまうことは、経営者としての役割を果たしていないことと同じです。よく、失敗すると「任せた専門家が悪い」「コンサルタントのせいだ」などと言う経営者がいますが、その専門家やコンサルタントを選んだのも、任せたのも、すべては経営者の責任です。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文春文庫)に、専門家をめぐって次のような話が出てきます。日露戦争の旅順攻略で、司令官の乃木希典は、砲兵の専門家の立てた作戦をそのまま用いたために、戦死者の山を築きます。戦況を立て直すために乗り込んできた総参謀長の児玉源太郎は、そんな乃木を「専門家に呑まれた」と見ます。

児玉の考えでは、敵の要塞を粉砕するには、重砲を集めて間断なく撃ち続けることでした。しかし、専門家は無理だと否定します。その理由は、今までやったことがないから、というものでした。次の文章に、児玉の専門家に対する見方がよく表れています。

児玉は過去に何度も経験したが、専門家にきくと、十中八、九、

「それはできません」

という答えを受けた。かれらの思考範囲が、いかに狭いかを、児玉は痛感していた。児玉はかつて参謀本部で、「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」とどなったことがある。専門知識というのは、ゆらい保守的なものであった。児玉は、そのことをよく知っていた。(『坂の上の雲 5』より)

もし、児玉が「きのうの専門家」に従っていたら、旅順を攻略することはできなかったでしょう。原子力もそうですが、最近はAIやフィンテックなど、専門知識がないと判断が難しくなってきているのは事実です。しかし、だからといって、経営者が専門家に判断を委ね、「専門家でないからわからない」とか、「専門家に任せていたのに失敗したのは、その専門家が悪い」と言うのは、経営者の役割や価値を自己否定することと同じです。

東芝のWHのケースも、「専門家に任せておけば大丈夫」、あるいは「自分は詳しくないから口出ししてはいけない」という気持ちがあったのではないでしょうか。

専門的な領域であっても、経営的に見れば、おかしいと気づけた部分はどこかにあったはずです。あるいは、そのことに気づけたとしても、専門家に「大丈夫です」と言われて、その判断に頼ろうという、無意識の責任逃れが起きていたのかもしれません。