販売新社は、デュッセルドルフの現法の子会社の形で設立し、本社事務所は拠点が建つまでの間、カパの屋根裏部屋に置く。まずは秘書を雇い、2人分の机や電話を入れて、カパにいた女性2人を営業補佐に採る。染料ラボにいた技術者も雇い、あとは縁故で集めていく。日本からは、自分を含めて5人。総勢10人余りで、平均年齢30歳での船出だ。半年後に移った本社事務所は、広くはなったが、やはり倉庫を改造した元屋根裏部屋。いまでは4階建てビルが建っているが、帰国するまでの3年3カ月、「屋根裏暮らし」となる。

ベルギーでは、北部ではオランダ語、南部はフランス語を話す人が多く、従業員には双方がいたから、仕事は英語が共通語。ただ、決算の記帳などはオランダ語でなければならず、苦労した。苦労と言えば、車の運転もそうだ。3カ月後に娘2人とやってきた妻ともども、日本で免許を持っていなかった。でも、ベルギーでは車がないと、生活が成り立たない。内示段階で、夫婦で自動車学校へ通ったが、妻は平均的な時間と費用で免許を取得。自分は実技が苦手で、時間も費用も2倍かかる。

そうして赴任したら、ベルギーでは当時、運転免許がなく、車を買うと、そのまま道路に出て走れた。そのためか、運転が乱暴な人が目立ち、こちらは免許の取り立て。運転したら、後部座席に同乗してくれた人が、悲鳴を上げた。

日本から輸入した衣料品向け染料の販売と技術支援は、付加価値のある製品さえ用意すれば、韓国などの安い製品とは別の需要もあった。ただ、世界の繊維分野の生産拠点が中国へいき、染色事業も移っていく流れには、抗しきれない。そこで、半導体向けやタイヤ向けのファインケミカル製品にも手を広げ、軌道に乗せた。