キリンを退社、アメリカへ

【田原】森さんはアメリカで起業します。起業したのはこのとき?

【森】いえ、MBA修了後はキリンビールに戻って数年働きました。その後、32歳で退社してまたアメリカに戻るという流れです。

サンバイオ社長 森敬太氏

【田原】何で退職したんですか。

【森】私の考えが甘かったですね。キリンビールで新しい事業ができると思っていましたが、実際は世の中そのようには回っていなかった。それに気づいて、じゃ自分でやろうと。退社後は、インフォマティクスのベンチャー企業を友人がサンフランシスコで経営していたので、絶好のチャンスだと思って参画させてもらいました。

【田原】アメリカでは、サンバイオを一緒に立ち上げた川西徹さんと出会いますね。

【森】出会うというか、再会ですね。川西は大学の同窓。当時から友達で、卒業後も定期的に飲む仲でした。彼はボストンコンサルティンググループで働いた後、独立してケアネットという医療情報の会社を立ち上げた。その後に渡米して私と再会して、頻繁に会ううちに何か一緒にやろうという話になりました。

大学の同窓生とアメリカで起業

【田原】意気投合したお2人はサンバイオを立ち上げた。サンバイオはどういう意味ですか。太陽のサン?

【森】いえ、「田原サン」というときのサンで、英語でいえばミスターやミセスです。バイオのナンバーワンを目指そうという思いで名づけました。

【田原】バイオの中でも、目をつけたのは再生医療でした。どうしてですか。

【森】当時、アメリカではゲノムが盛り上がっていました。ただ、すでに大きな会社が誕生していて、いまからベンチャーが参入しても周回遅れで負けてしまう。もっと最先端のことをやろうと考えていろいろ精査した結果、再生医療なら自分たちにチャンスがあって、なおかつ世の中に貢献できるだろうと判断しました。

【田原】京大の山中伸弥さんがiPS細胞でノーベル賞を獲ったのが2012年です。そこから日本でも再生医療が注目を集めるようになりましたが、サンバイオはもっと前だ。

【森】創業は2001年で、iPS細胞より約10年前です。ただ、世間の認知度は別にして、当時から再生医療の可能性は注目されていました。日本政府も国の研究予算を再生医療にかなり入れていました。そうした下地があったので、のちに山中先生をはじめさまざまな技術が生まれてきた。日本政府は先見の明があったと思います。

【田原】事業化する再生医療技術はどうやって見つけたのですか。

【森】自分たちが投資すべき技術については、3つの条件がありました。1つ目は先ほど言ったように、最先端であること。2つ目は、研究を進めている先生がアメリカでの製品化に賛同してくれること。そして3つ目が特許を取得していること。これらの条件を満たす研究者を探して、片っ端から会いに行きました。

【田原】アメリカで製品化するのはなぜですか。

【森】当時、日本は再生医療の研究が盛んでしたが、患者さんに投与する臨床試験ができる環境が整っていませんでした。薬の試験は副作用などの安全の問題があり、さまざまなことを調べて当局を納得させたうえでないと行えません。日本は当局が安全サイドに振っているので簡単に治験を行えませんが、アメリカは歴史的に見て、わりと簡単にOKを出してくれる。ですから、日本のすばらしい技術をアメリカで試験して製品化すれば、新しい治療をいち早く世界に届けられると考えました。

【田原】もう一つ、特許というのは?

【森】いまはかなり変わりましたが、当時、日本の先生たちは学者肌で、論文は出すけど特許を取らない方が少なくなかった。ただ、せっかくの大発見も特許を取っていないと守れないし、守れないと事業を継続できません。現実的な視点ですが、これは譲れない条件でした。

【田原】それらの条件を満たす技術に出合うまでに、何人会いました?

【森】最先端の研究をされている先生に、日本だけでも30~40人は会いました。アメリカを入れると50人かな。