資金がないからこそ、財閥系企業に勝てた

【池田】私は、入社時に「自分は新しいものを発明できる力はありません」とはっきり告げ、ずっと経営企画畑を歩いてきました。大学でちょっと化学をかじったからといって、会社に入ってすぐに独創的な発明ができるとは思わなかったからです。幸い私は、81年から2年間、アメリカのコーネル大学に留学させてもらいMBAも取得しました。会計学、統計学などを学び、後に当社初の海外拠点が米国にでき、現場の責任者を任されました。そこでは交渉術を学びました。こちらが譲れないぎりぎりの線をしっかり頭に入れて交渉を始めたら、のめるところはのむ。引いていると見せつつ、ぎりぎりの線は死守しました。そうした経験を通して八谷さんの突破力の強さを実感しました。

【高杉】僕は『炎の経営者』のための取材を申し込んで、永野さんを日本商工会議所に訪ねています。そのときのセリフがよかった。「そうか。八谷君のことを書いてくれるのか。うれしいなあ」と。それから約3時間、八谷さんとの思い出を話してくれました。その印象が車中直訴の場面になっています。

【池田】技術力に自信があったからでしょうね。このときに出資を引き出せたことが、59年の川崎のコンビナートへの進出に伴う川崎工場の開設につながっていくわけです。いま、現地に行ってもわかりますが、8000坪の敷地を鉄道輸送のための引き込み線が分断している。建設そのものもむずかしかったはずです。土地の払い下げに関して、川崎市と繰り返し折衝したところもドラマに描かれています。まだ、日本触媒化学工業は関東では無名でしたからね……。加えて、大手メーカーに伍して自社技術で乗り切ろうとした。そのころは、三菱油化(現・三菱化学)、三井石油化学(現・三井化学)といった財閥系の会社ですら、ほとんどが技術導入。そんななかにあって、当社は原料を買う資金がないから必死に取り組みました。前出の満鉄出身の役員がそういっていたことを覚えています。

【高杉】それはね、日本の化学工業史、いや産業史に残る快挙です。八谷さんは、大変なリスクを取り、乾坤一擲の勝負をかけたわけでしょう。無水フタル酸の製造、合成繊維の原料であるエチレンオキサイド、エチレングリコールの開発などを、すべて自社で成功させたのですからね。

【池田】化学はすべての産業の源を生み出すと、私は信じています。それほどに裾野が広く、どんなものにも化けることができる。つまり、化学会社はこれからも世界で戦っていけると考えています。そのためにも従業員が誇りを持てる会社をめざします。かつては日本を代表する企業として輝いていたにもかかわらず、不祥事を起こす大企業さえあります。そんな世の中でも、勤務先を尋ねられたとき「私は日本触媒に勤めています」と胸を張っていえる会社にしたい。OBや会社の伝統に対しての責任もありますからね。

八谷氏に関する資料などを調べながら、対談は90分間に及んだ。

【高杉】なるほど、そうした考え方に八谷さんのDNAが脈々と息づいていることを感じます。八谷さんが亡くなってから、もう50年近くになります。いまや八谷さんの謦咳に接していない世代が大半のはずです。カリスマ的で強いリーダーシップを持っていた創業者が亡くなると、企業は苦境に立たされることも少なくありません。事実、八谷さんの訃報が流れたとき、僕の周りにも「もう、日本触媒はダメなのではないか」と噂をする人たちもいました。しかし、それは杞憂でしたね。

【池田】もちろん、業績に波がなかったわけではないのです。けれども、事業を引き継いでいく歴代トップが正しい決断をしてきました。その結果、現在では紙おむつなどに使われる高吸収性樹脂の分野で世界シェア1位を維持しています。とはいえ、次の事業の柱となると、電子情報機器材料や医療検査機器の素材などがありますが稼ぎになるのはしばらく先です。

だから、経営判断が重要になってきます。私は社長として「物事は損得ではなく、善悪で判断し、行動するべき」を座右の銘にしてきました。儲かることであっても、善悪の判断に照らして、悪になるならすべきではない。善悪で判断することが遠回りに見えても、長い目で見れば利益につながるはず。それも八谷さんの経営哲学に通じるものだと思っています。

日本触媒社長 池田全徳
1953年、大阪府生まれ。75年東大工学部卒、76年日本触媒化学工業(現・日本触媒)入社。83年コーネル大学経営学修士課程修了。98年海外事業部長、2003年取締役などを経て、11年から現職。
作家 高杉 良
1939年、東京都生まれ。専門紙記者、編集長を経て、75年『虚構の城』で作家デビュー。以来、経済界を舞台にしたリアリティ溢れる話題作を次々と発表。『金融腐蝕列島』など著書は70作を超える