1890年10月に「教育勅語」が発布されるまで、日本では教育方針をめぐってやはり普遍主義と共同体主義が激しく対立していた。西洋式の自立自営の個人をモデルとするか(啓蒙主義)、東洋式の忠臣孝子をモデルとするか(儒教主義)、論争が起きていたのである。

そこで、帝国議会の開院をまえにして、その調和が図られた。白羽の矢が立ったのは、「大日本帝国憲法」の起草にも関与した、法制官僚の井上毅だった。井上は、特定の思想信条に与しないよう慎重に言葉を選んで「教育勅語」を組み立てた。

「教育勅語」というと、戦前特有の軍国主義や神国思想の権化のように思われるかもしれない。だが、この文書が発布されたとき、日本はまだ、いつ植民地にされてもおかしくない、極東の弱小国にすぎなかった。そのため、その内容は当時としては意外にも穏当で無難だった。

その分、その後日本が日清戦争や日露戦争に勝利して大国化すると、「教育勅語」の内容は不十分だと指摘されるようになった。産業振興や国際交流、女子教育に関する記述がないなどとして、改訂や追加をするべきだとの意見が相次いだのだ。

天皇の権威がネックとなって「教育勅語」はそのまま残されたが、それを補うために「戊申詔書」や「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などが発布された(※1)。「教育勅語」は、けっして狂信的ではなかったが、普遍的でも絶対的でもなかったのである。

このように「教育勅語」でさえ、普遍主義と共同体主義のバランスのうえに成り立っていた。その後の教育法令などはなおのことそうだった。

昭和に入って軍国主義や超国家主義が強まると、日本は共同体主義に傾いた。文部省は『国体の本義』や『臣民の道』を刊行し、われわれは普遍的な人類ではなく、国民であり、日本人でしかありえないと主張した(※2)。敗戦後この反動で、普遍主義が強まり、1947年3月「教育基本法」が制定され、どこの国にもあてはまる高邁な理想が掲げられた。すると、今度は日本人としての価値観に欠けるなどとして保守派の反発を招いた。こうして2006年12月「教育基本法」が改正され、「我が国と郷土を愛する」などとの文言が加えられた。現在これにリベラル派が反発しているところである。

日本の教育は、変化する世界と社会に柔軟に対応し、ときに失敗しながらも、着実に成果をあげてきた。特定の文書を絶対視し墨守してきたわけではない。これは忘れてはならない重要な点である。