看板屋からミラー屋に大変身

ユーザに聞いてみなければ、本当の使い方は分からないというのは、ミラーだけでなく他の商品でも言えることだろう。そもそも、コミーのミラービジネスは使い方の勘違いに気づいたことから始まった。

小宮山の前半生は挫折の連続だった。信州大学を卒業後、ベアリング製造の日本精工に入社するが、何ごとも要領が悪く、競争の苦手な小宮山は大企業になかなか順応できなかった。結局、3年半で会社を辞め、自動車の修理工場に勤めるが、1カ月足らずでクビに。百科事典のセールスに転じるも押し売り的なセールスが合わずに2週間で辞めた。

ドームミラーは360°複雑なスペースをカバー。

その後、大型トラックの修理工場に入り、トラックに文字を書く仕事があることを知った。工場の日当よりもはるかに稼げるとわかり、独立したいと思った。結果的には自動車ではなく、店舗のシャッターに文字を書く仕事を個人で始めた。1967年、27歳のときに東京駒込で看板業「小諸文字宣伝社」を設立。出身地である長野の小諸を社名に使った。

「早朝に商店街を回って、シャッターに何も書かれていない店を見つけると、昼にその店へ行き、『店の宣伝になるから、シャッターに文字を書きませんか』と営業します。シャッターが降りた夜のうちに仕事を終わらせ、次の日、代金をもらう。店の営業に支障はないので、結構、注文がありました」

やがて、資金を貯めて店舗を持ち、看板まで制作するようになった。小宮山が「コミーさん」と呼ばれていたことから、68年にコミー工芸と社名を変更。店舗と言っても狭い車庫にトタン屋根、トイレもなく、夏はすさまじく暑く、冬はストーブで寒さをしのいだ。資金もない、売り上げもわずか、自分以外に社員もいないというないない尽くしの会社だったが、小宮山はものづくりが楽しかった。

71年に「回転装置」を開発し、回転看板用やディスプレイ用として売れるようになった。73年に法人化。高校教師をしていた義兄の教え子で、同じ長野県出身の小山嘉徳(現・専務)が社員として入社した。以後、現在に至るまで小宮山の右腕として会社を支える。

あるとき、知り合いが「これを回転看板に付けてみたら」と凸面鏡を持ち込んできた。そこで、小宮山はモーターと電池を取り付けて、回る鏡を作ってみた。天井から吊り下げる店舗のディスプレイ用品として「回転ミラックス」と名付け、77年に晴海で開かれた展示会に出展した。すると、来場者が不思議そうに眺めていき、ポツポツ注文が入るようになった。そのうち、あるスーパーマーケットが30個も注文してきた。

たまたまそのスーパーが近くにあったので、数カ月後に一体30個も何に使っているのだろうと何気なしに訪ねてみると、なんとディスプレイ用ではなく、万引き防止に使っていることがわかった。小宮山は驚き、万引きが小売店をどれほど困らせているか初めて知った。これを契機にコミーは万引き防止ミラーを作るようになり、看板業からミラーのメーカーへシフトしていく。もし、疑問を持たずに、このスーパーを訪ねていなかったら、今のコミーはなかったかもしれない。

回転ミラックスのヒットに気をよくし、小宮山は家庭用のミラーボールを作った。これもある程度売れるようになったが、その矢先に大手メーカーが参入し、競争に巻き込まれて撤退に追いやられた。

「ミラーボールの失敗で、独自のやり方をしなければ、すぐに真似されると分かりました。競争するのではなく、ニッチな市場でもそこでよい商品を磨き上げていく方がいいと思いました。以来、いかに競争しないですむマーケットを開拓し、そこでユーザに満足してもらうかだけを考えてきました」