文章は上手でも、そこに真実や誠実さがないと、やはり相手の心にまでは届かないものです。美文でなくとも、思想的な深みや内面を感じさせる文章であれば、きちんと相手に届く。『韓非子』に「巧詐は拙誠に如かず(巧みに人をだますことは、拙くても誠意を示すことにかなわない)」とあります。言葉を換えれば、誠実で品性や徳の備わった人でなければ、読む人の心に響く文章は書けないということです。

思想や深みや内面を感じさせる文章であれば美文でなくとも相手に届く
思想や深みや内面を感じさせる文章であれば美文でなくとも相手に届く

けれども、品性や徳というのは生き方ですから、一朝一夕で身につくものではありません。ですから、いい文章を書けるようになるには、まず本をたくさん読んで教養を深めるところから始めたらいいと思います。

その際、書かれてあることをそのまま鵜呑みにするのではなく、常に批判的な眼で読むということを心がけてください。というのも、現在世の中に流通している本というのは玉石混淆で、読むべき価値のないものもたくさんあり、そういうものにかかわるのは時間の無駄であるばかりか、自分の考えや書くものに対しても、悪影響を与えかねないからです。

しかも、そういう本にかぎって、美辞麗句を連ねもっともらしく書かれていたりします。ですから、仮にいいことが書いてあると思っても、「本当だろうか」と一度は疑ってみるというのが、読書の姿勢としてはむしろ正しいといえます。

一方で、古典というのは長い年月の間に多くの人の批評にさらされ、そのうえで一定の評価を得ているのですから、比較的安心して読むことができるといっていいでしょう。また、古典にしばしば見られる、いまでは使われていないような言い回しの中には、ものごとの本質をズバリとつくようなものがいくつもあります。そういう言葉は、説得力のある文章を書くときの武器にもなるのです。

ホワイトナイトとしてライブドアによるニッポン放送株買収問題の収拾役を買って出たとき、僕は「証券市場の清冽な地下水を汚す行為に義憤を覚えずにはいられない」と発言し、翌日、それが各新聞の見出しになりました。後にある新聞記者から、「義憤と聞いて、北尾さんの行動の意味がいっぺんで理解できました。あれ以上に適切な表現はなかったでしょう」といわれたのを、いまでもよく思い出します。義憤という言葉を使わなかったら、百万言を費やしても僕の思いは伝わらなかったかもしれません。それくらい、適切な言葉を選ぶことは大切なのです。

「清冽な地下水」のほうもかなりインパクトがあったようで、いまだにいろいろな人が覚えてくれています。実は、あれは野村証券の社長・会長を務めた北裏喜一郎氏が、日ごろよく口にされていた言葉だったのです。

それが僕の頭に焼き付いていたからこそ、あのときとっさに口をついて出てきたのでしょう。そういう言葉のストックが豊富にあり、最適なタイミングで取り出せることを、教養というのです。

それに、言葉を含めいろいろなことを知っていれば、自分より上の人に提言や諌言をするときも、たとえ話などを用いて婉曲的に行うことができる。これを諷諌(ふうかん)といい、韓非も直接もの申す直諌より、諷諌のほうが得てして効果があると説いています。教養は表現の正確さを増し、多様性を広げてくれるということを、ぜひ覚えておいてください。