(上)藤谷康男日立事業所長。1980年入社。日立事業所に配属され火力発電所の設計を手がける。3月28日から現職。(中)南雄彦副事業所長。82年入社。一貫して日立事業所に在籍。原子力発電の製造に携わる。(下)江尻一彦生産技術部長。早期復旧に奔走した。

(上)藤谷康男日立事業所長。1980年入社。日立事業所に配属され火力発電所の設計を手がける。3月28日から現職。(中)南雄彦副事業所長。82年入社。一貫して日立事業所に在籍。原子力発電の製造に携わる。(下)江尻一彦生産技術部長。早期復旧に奔走した。

「みんな仕事と会社が大好きだし、誇りを持っている。自分たちがやらなければ、ほかに電力機器を修理する人はいない。我々がやらなければ、お客様を支えることも、日本のインフラをきちんと維持することもできない。そういう意識はあったと思います」

日立製作所は1910年、小平浪平(おだいらなみへい)によって創業された。小平が日本初の5馬力モーターを製作したのが日立事業所のある日立市(当時の日立村)だ。

日立は創業以来、2つの災厄に見舞われた。19年には変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。45年にはB29爆撃機のべ120機の空襲を受け、海岸工場が壊滅的な被害を受けた。そこから日立は立ち上がってきた。その経験が語り伝えられ、日立事業所の「精神的なバックボーン」(藤谷事業所長)になっているともいう。

復旧はなった。だが、これが即、日立事業所の未来を約束しているわけではない。円高や電力不足、縮小が予想される国内市場、勃興する新興国――。経営環境は大きく変化している。冷静に考えたとき、「日立」という創業地に拘泥し続ける意味はあるのか。

「世界を見回しても、これだけの製品を作れるところは、そういくつもない。付加価値の高い高度な技術が必要なものは日立事業所で作る。この日立事業所を技術の『マザー工場』としながら、海外の事業所や工場との組み合わせで、大きなビジネスをつくっていく」(藤谷事業所長)

工場では若い女性が、緑のラインが入ったヘルメットをかぶって、先輩と共に働いていた。緑のラインは今年入った新人だという。日立では、技術系、事務系を問わず、新入社員は全員、工場で研修を受けるのが伝統である。

今年も無事新人を迎え、いま再び斉整(せいせい)と時が流れている。その日常的な「時」は、実は多くの人々の努力に支えられている。

※すべて雑誌掲載当時

(小倉和徳=撮影)