3度目の災厄を乗り越え「創業地」に拘る意味

 日立事業所の工場内を歩く。大型のNC旋盤がうなりを上げて、大型タービンを削り出し、一直線のラインには、銀色に磨き抜かれた大型タービンが、整然と並んでいる。指摘されなければ、大震災の爪跡はわからない。

タービンの仕向け先を見ると、電力不足に対応するために、増強が急がれる電力会社向けが目につく。

仕事は、こうした新規案件ばかりではない。福島第一原発のみならず、東北の太平洋沿岸にある多くの火力発電所が、津波に襲われた。

発電機部門には、津波に浸かってしまった発電機が、点検・補修のために持ち込まれている。被害がひどい場合は、温水につけて洗浄。軽い場合は水洗いしてから、点検・補修を行う。

まだある。原子力部門を抱える日立事業所は、福島第一原発に、500人規模の応援部隊を派遣している。1982年に入社した南副事業所長は、25年にわたって原子力に携わってきた。

「私の昔の部下が、ここから現地に向けて、出て行くわけです。とにかく体に気をつけて行ってきてくれという思いで見送りました」

このときだけは、心なしか声が潤んでいるように聞こえた。

なぜ、日立事業所の人々は、ここまで頑張り通せたのだろうか。前任の石塚達郎事業所長(現電力システム社社長)の後を引き継ぎ、3月28日から日立事業所に入った藤谷康男事業所長に訊いてみた。