2017年2月3日(金)

昔は職人が座っていた!? 「江戸前鮨」12の進化

dancyu 2015年1月号

文・福地享子

「江戸前鮨」は江戸時代から続く伝統料理、と思うかもしれませんが、実は、幾多の変遷と変化を経て、今なお進化を続けています。その変化と進化を辿ってみます。

1. 「江戸前」とは?

江戸の前の海だから「江戸前」。当初は、たかだか品川から深川間の前に広がる海のことをいったが、小肌、鱚、穴子、白魚などの小魚類、平目や鰈などの白身、蛤や赤貝と魚介類が豊富で、こうした海の幸、いわゆる江戸前物を利用して握り鮨が発展した。現在は東京湾全体で獲れるものを「江戸前物」と呼んでいる。また握り鮨は大正時代から昭和初めにかけて全国に展開、ご当地鮨と区別するため、近年になって「江戸前鮨」という呼び名が誕生した。

2. 江戸バブルの鮨王、華屋與兵衛

鮨の歴史に残るビッグネーム。文化文政(1804~1829年)という江戸のバブル期、食文化も頂点に達した時代、華屋與兵衛は街を流す鮨売りからやがて両国に店を開く。売り出したのは、握るという新手法の鮨である。それまでの鮨は時間のかかる押し寿司で、目新しい鮨は一躍人々の注目を集めた。こうして握る寿司、すなわち握り鮨は、與兵衛の名とともに後世に伝わることになった。與兵衛以前にも握り鮨を試みた者はいたということだが、與兵衛が成功したのは、グルメ爛熟期という世相が後押ししたからといえる。

3. 赤身からとろへ

かつて鮪は下魚とされていた。その鮪をヅケにして初めて握ったのは、江戸馬喰町の屋台「恵比寿寿司」。天保年間(1830~1844年)、江戸近海で鮪が大漁になってからのことだという。以後、高級な鮨屋は敬遠したものの、大衆的な屋台を通してヅケ鮪の鮨は浸透していく。ただし使うのはもっぱら赤身で、とろが人気となったのは第二次世界大戦後、洋風嗜好に変化してからだ。そして今、鮪は鮨ダネのなかで最も高級なタネ。いくつもの逆転劇をくりかえし、今の座を得た。

4. 笹切り家紋でチップ頂戴

テイクアウトの折詰によく入っているビニールの緑色の仕切りには、実は深イイ話がある。昔の高級鮨屋はテイクアウトが中心、客はお重持参で予約した。そこに鮨を詰めるとき、仕切りに笹の葉を切って使った。これがビニール仕切りの始まりなのだ。職人は、さらに切紙細工みたいにして笹の葉で注文主の家紋を切り出し、鮨のうえにハラリ。オンリーワンのサービスは、たんまりチップも期待できるというもの。当時の鮨職人に、家紋を記した家紋帖は必須だった。

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福地 享子

かつて女性誌の編集者、その後、築地の鮮魚仲卸「濱長」の看板ネエサンとして大活躍。現在は築地の書庫「銀鱗文庫」役員。ここを拠点に、築地を走り回っている。