しかし、篤姫の結婚は試練の連続でした。結婚してまもなく、かけがえのないものをいっぺんに失うという経験をしています。

最初は夫・家定の死。篤姫は輿入れに際して、水戸家出身の一橋慶喜を将軍家の跡継ぎにするべく、家定とこれに反対する大奥を説得するよう養父の斉彬から使命を託されていました。

ところが紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ:のちの家茂(いえもち))を推す井伊直弼が大老に就任し、慶福が家定の世嗣に内定してしまいます。その直後に家定が亡くなり、さらに追い討ちをかけるように養父斉彬も急死して、後ろ盾がなくなります。

大奥の中で、孤立無援の篤姫は自分の存在意義さえも失いかねない状況にありました。

しかし篤姫はくじけるどころか、新たな使命を見出し、自分の判断で行動するようになっていきます。

家定が亡くなったとき、篤姫はまだ20代前半です。頼れるものを次々と失って、絶望のどん底にあった篤姫の本領が発揮されるのはむしろここからです。家定の後を継いで14代将軍に就任した家茂は弱冠13歳。篤姫は大御台所として若い家茂を支えていかなければ、と決意したに違いありません。

また聡明で誠実な家茂とは11歳しか年が離れていないので、弟のような親近感を抱いたのではないでしょうか。大奥女中たちの意識も次第に変化していきます。それまで篤姫に対して抱いていた敵対心は信頼感に変わり、ともに家茂を盛り立てるべく、大奥は一つにまとまったのです。

斉彬の言葉を借りれば、篤姫は「われわれの想像を超える懐の大きな人」であったようです。非常に忍耐強く、あたたかな雰囲気をかもしだして周囲とうち解けていく資質があった。それが困難な状況を切り開いていく原動力になったと思われます。

大奥を束ね、将軍家茂を支えていくのは並大抵ではなかったと思います。前将軍家定の生母本寿院も、当初は篤姫を警戒していたでしょうから、大変だったことでしょう。

そうした試練に鍛えられ、自分がやらなくてはいけないという覚悟をもつことが、篤姫を大きく成長させたのではないでしょうか。

(構成=石田順子 撮影=大杉和広)