天才、切れ者、そして偉大な凡人、家康

「信長公黄葉まつり」で武者に扮した安部龍太郎氏。

天下分け目の一戦に勝利した家康は江戸幕府を開き、天下を安定させる。私は、信長を天才とするなら、秀吉は切れ者、家康は凡人だった気がする。およそ半世紀にわたる戦いを経て、長い戦乱の世に終わりをもたらした偉大なる凡人だ。そう見てみると、いま注目すべきは家康ではないかと考えるようになった。戦国物の集大成として、彼を描いてみたいと思った。

第一巻「自立編」は、家康が19歳のときから筆を起こした。彼は、2歳のときに実の母から引き離され、父も早くに失っている。そして、6歳からこの年齢まで尾張の織田、駿河の今川の人質として暮らさざるを得なかった。いつ殺されるかもわからない忍従の日々を過ごしていたのである。おそらく家康は、そのときに辛抱ということを学んだのだろう。用心に用心を重ね、処世の術を身につけたに違いない。

そんな雌伏の時代が、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで一変する。今川義元が信長の奇襲戦法に討たれると、家康はその混乱に乗じて、本拠地の岡崎へ戻り、今川と決別。信長との清州同盟を組んで、三河から遠江へと版図を広げていく。その間、信長が姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破った際には、徳川軍の働きが大いに勝利に貢献し、彼の武名も高まっていった。

人間的にも大きくなっていく。家康の成長を促したそのキーマンの1人が、徳川家菩提寺の住職を務めていた登誉上人である。彼は家康の師といっていい存在だ。家康が桶狭間の戦いの際、敵兵に負われて進退窮まったときのことである。切腹をしようとする家康に対し、登誉は「死んだつもりで、奪い合い、殺し合いのない世の中をめざせ!」と諭す。そして、白地に「厭離穢土欣求浄土」と墨書した旗を手渡した。

この旗は以後、常に徳川の本陣に高々と立てられる。穢い世間を離れ、清らか国を求めるという浄土宗の教えだが、家康にしてみれば「どうやったら戦争のない世の中を作れるのか」という一生のテーマを掲げた本陣旗だったろうと思う。それからの合戦は、自分のためではなく、この志を実現するためだった気がしてならない。