間口の広いところは、僕も踏襲している

「元気で育っているだけでいい」という考えだったので、怒られた経験もあまりなく、母は何事にも寛大でした。日本に引き揚げてきて成城の小学校に入学しましたが、実は僕、成城の幼稚園を受験して、見事に失敗しているのです。試験に「正しい日の丸を選びましょう」というあまりにも簡単な問題が出題されて、幼心にバカバカしいと思った僕は、思わず先生に「バカ!」と言ってしまいました。もちろん即落第。それでも母は怒らず、「言葉が足りない。何かもっとほかの言い方があるでしょう?」とやさしく諭されました。

母は、現在のお茶の水女子大学の出身で、“作楽(さくら)会”という仲間でよく集っていました。僕が家に帰ると、いつも明治の強い女性たちがワイワイにぎやかに議論している。母はヨーロッパでの生活を経て、考え方もいち早くグローバル化していたのでしょう。出井家の家庭、そして母が温かかったので、父のゼミの学生さんたちなどいつも多くの人が遊びに来ていました。終戦後の何もない時期でも、みんなにカレーライスを振る舞うなどしてね。そういう間口の広いところだけは、僕も踏襲できているのかなと思います。

(左)1960年代。ソニーに入社後、24歳のときにジュネーブにある大学院へ留学。飛び立つ伸之氏を空港で見送る母・綾子さんの姿。ジュネーブへの留学を決意したのは、家族の影響だったという。(右)この企画を機に初めて見たという母の日記と亡き兄が使っていた11歳頃のノート。

“最大のライバル”は、死んだ兄

幼少期、大学教員の生活は豊かではありませんでした。父から受けるプレッシャーは一切ありませんでしたが、僕の人生において“最大のライバル”は、死んだ兄。家族の誰もが「譲治(兄)は優秀だった」としか言わないし、僕自身、兄と同じにバイオリンなど習い事をさせられましたが、「彼を超えた」と思ったことは一度もない。

父は、僕に兄を重ねていたのか、「大学に入ったら後を継いでほしい」と言いましたが、母は「あなたの好きな道を行きなさい」と言ってくれました。もともと自分が学者に向いているとは思わなかったし、父の背中を見て「本ばかり読んでいて、つまらない人生だな」と感じていたので、母のその言葉にはホッとしました。多くの苦難の中、信念をもって変化する人生に順応していった両親はすごかったなと思う。理想ではないけれど、いい夫婦でしたよね(笑)。