限界がささやかれる日本経済に対して、政府に明確な成長戦略を求める声は多い。しかし、そもそも政府に戦略策定は可能なのか。優れた戦略策定の難しさと、政府が果たすべき真の役割について、筆者が説く。

 

政治家のつくる戦略は総花的になりがち

政府が明確な成長戦略を示し、官庁や企業をはじめ多くの団体や経済主体がその戦略に合わせて足並みをそろえて資源投入を行えば、よりよい成果が得られるはずだという期待がある。

日本経済がいつまでたっても、停滞から抜け出すことができないのは、政府に明確な戦略が欠けているからだという見方は、このような期待をもとにしている。

この期待にこたえようとしたのが昨年秋に発表された政府の新成長戦略である。人々の期待にこたえようとしたものである。しかし、それをよく見てみると、さまざまな成長分野が羅列されており、総花的だという印象を与えるものになってしまっている。

優れた戦略はどのような条件を満たすべきかについて様々な意見があるが、戦略の重要な任務は資源配分の優先順位を示すことである、ということに関しては多くの人々の意見は一致している。資源配分を行う分野が総花的な戦略は、戦略の任務を果していない。政治家のつくる戦略は総花的になってしまいがちである。なぜそうなるのか。本来は、集中すべき分野が明確になっているのが望ましい。しかもその分野が成長分野であればさらに望ましい。

しかし、この2つのことを政治の世界で実現することは難しい。その難しさは、次の点からくる。

まず第一の難しさは、どの産業分野が成長するかを事前に予測することの難しさに由来するものである。われわれの知識がかぎられているため、技術がどのような方向に進歩するか、あるいは社会の要求がどう変化するかを事前に予測するのは難しい。このようなとき、人々の予測は異なる。しかも、その予測の中に人々の願望が混じりこむ。予測の違いは事実認識の違いなのか、価値観の違いからくるものなのか区別がつかない。

戦略の策定に際して、どの予測つまり誰の予測を採用するかを選択しなければならない。価値の選択に関して民主主義は一定の合理性を持っている。あるいは、それしか選びようがない。しかし、事実認識の選択を民主的に行うのが合理的であるとはかぎらない。事実認識に関して多数意見が正しいという保証はない。20年ほど前には、原子力発電は危険が大きく、有望な分野ではないという意見が支配的であったが、現代では、CO2を減らすための有望な技術だと認識されるようになってきた。

予測の選択に際して、すでにわれわれの身の回りで起こっている予測が正しいと判断されがちである。IT分野が今後も成長分野であるという予測は、IT産業が現在伸びているからである。このような予測は、現在の趨勢をそのまま将来に伸ばしたものにすぎない。

 

極めて戦略的だったCOP15の目標

このようにして選択された成長産業は、日本だけでなく、世界中の国々が注目している分野であり、その産業分野での競争は厳しく、そこで勝ち残ることは容易ではない。

自由競争社会のよさは、企業や個人がそれぞれの責任をもとに、成長分野を見極め、投資を行うことである。皆が正しい選択を行うことができるという保証はないが、多様な選択が行われ、そのうち誰かが正解を選択する可能性がある。

成長分野が予測できたとしても、投資の優先順位を決めることは難しい。優先順位は、諸個人、企業の利害と関わる。得をする人々は賛成するが、損をする人々は反対し、抵抗する。この優先順位の決定に関しても多数意見に従うのが合理的であるという保証はない。それは会社制度の歴史を見てみればわかる。

株式会社は、社長に権力が集中できる制度である。その代わり、社長は結果に対して責任をとる。このことは、無限責任社員の全員一致が必要な合資会社に対する株式会社の優位である。独裁システムを許容できるのが株式会社の強みだが、このような独裁システムを日本の政治の世界で生み出すことができるのだろうか。